コミュニタリアニズム

 「この責任はどう取るんですか!」「被害者遺族に謝罪の言葉はないんですか!」「あなたは、加害者の親なんですよ!そのことを理解されてるんですか!」
 
 テレビからは未成年の猟奇殺人犯の親が、涙を浮かべながら報道陣の不躾な言葉に耐えているシーンが流れている。
 「しかし、ひどいな。やりすぎじゃないか。」
 「だけど親だしなあ。そういう子どもに育てた一定の責任はあるんじゃないのか?」
 「責任て…。だいたい子どもと過ごしっぱなしの時間なんて、就学前の5,6年の話だろ?学校に行くようになれば、親なんかより同級生や先生から影響されることの方が多い。そういうお前は、自分の子どもがどういう生活を送ってどういう人間になってるか、本当にわかってるのか?」
 「そんなの当たり前だろ。わかってるに決まってるじゃないか。親なんだから。」



 「責任って言葉の意味わかりますか?」「あなたは、その犯罪者の遺産を受け継いで今まで生きてこれたんですよね?正の遺産だけはもらって、負債は無視っていうのは都合が良すぎるのでは?」

 テレビからは強盗殺人犯の子が、嗚咽しながら報道陣と会話するシーンが流れている。
 「こういうのよくないんじゃないか?」
 「なに言ってるんだよ、しょうがないことだ。」
 「だっておかしいだろ、子どもが親の責任を追求されるなんて。」
 「おかしいことあるかよ。大体な、子どもっていうのは、生まれた時から何の努力もなしで寵愛を受け、お金だったり社会的な名誉だったりを自動的に受け継ぐことになるんだぞ?それでいて昔は親に子どもの責任を取らせてたんだから、子どもだけが得する社会だったんだ。そっちの方がおかしいよ。」
 「だけどなあ、これじゃあイジメじゃないか…。」
 「確かに、親が犯罪者だということが明るみになって、学校でイジメられる子どもというのは昔からいた。しかし、それはただの偏見だ。『親が犯罪者なのだから、子もそれに匹敵する悪者に違いない』という無根拠な誹謗だ。それはいけないことだろう。けど、今は違う。子どもに問うているのは、あくまで『責任』だ。家庭環境とか境遇もそうだけど、借金だって遺産なんだよ。」



 「あー、これ懐かしいなあ。」
 友人が引越しをするというから、荷造りの手伝いをしていたのだが、懐かしい本が出てきた。
 ずっと本のタイトルが出てこなかったのだが、初めて読んだ時の面白さだけは頭に残っていた。最初に読んだのは中学生の頃だったろうか。その時点で既に結構な古い本だった。
この本は、文学・教育学・歴史学民俗学など多方面から支持されてきた。「プレモダンの大作」と呼ばれていた気がする。
 書かれた時代を考えれば、これほど先進的な見方を提示できるものも珍しい。この本では、革命を志す若者が、ある団体に入り犯罪の片棒を担ぐことになる。そこまでは、よくある闘争記であるが、この作品の肝はそこではない。当然、その時代にあっては若者の親への非難、責任追及が激しい。しかし、その親はこの非難に決して屈せず、自らの「親の責任」を放棄しようとし続け、周りの人間もそれをサポートしていくのだ。この前時代的価値観に対して戦う姿勢を見せる作品は、「現代の夜明け」に相応しい作品だった。
 ただ、これが「プレモダン」止まりなのは、「子の行為に対する親の責任の放棄」までしか問えていないという点にある。やはり現代の重要なパースペクティブはその先にある。


 正弥君と下校しながら、僕は今日の授業内容を頭の中で反復していた。何かおかしい気がする。けど、どこがおかしいかはわからない。先生の言ってることは、凄く理論的に正しいように感じる。ただ、妙な引っかかりだけが残って消えない。こういうことを話すのはちょっと恥ずかしいけど、正弥君に聞いてみることにした。
 「僕、やっぱり思うんだけど、子は親を選べるわけではないのに、親のしたことに責任を取るのはおかしい気がするよ…。」
 正弥君は少し呆れているようだった。
 「君はちゃんと授業聞いていたのかい?だとしたらおかしいね、何言ってるんだい?親だって子どもを選べないじゃないか。しかも先に生まれただけあって、地位も名誉も子どもより大きい。それなのに、ブサイクかもしれない、頭が悪いかもしれない自分の子どもに対して様々な施しをする。お金の負担だって馬鹿にならない。僕らはそういう親の犠牲の上にここまで生きてこれたんだろう?責任をとることくらい、わけないよ。」

 こういうのを『正論』というのだろう。テストで書けば100点だ。それくらい僕にだってわかっている。
 昔は『モラトリアム』なんて言って、特に何をしたいわけでもないのに大学に進学する人が多かったそうだ。だけど、今はそんな人はいない。みんな、早く『親』になりたかった。だからなるべく早く就職をしたがる。就職するには勉強しなきゃいけない。歳をとってる人たちは、みんな大学まで出てるから、自らと同程度の知的水準であることを新入社員には望む。それと早く就職したいという常識的観念が対立する。みんなよく勉強をする。真のエリートは中卒だ。その年齢にして職にありつけた優秀な人達だ。僕はそこまで優秀じゃないから、高校くらいは行くことになるだろう。大学まで行くとなると、そこまでいかないと就職ができない相当の落ちこぼれか、気がおかしくなった人だけだろう。(こういう人は今も昔も、ある程度いたらしい)
 みんな、親になって『債権者』になるのを夢見た。少子化はとっくに解消されていた。どうせなら、より多くの人間の『債権者』になるほうが良いからだ。もっとも、債権者になったからといって『親』に対する『債務』は消えるわけではない。ただし、自らの債務を子という債権者に、債務手形のようにたらい回しにすることはできた。
 その世界を、みんなが選んできた。だからきっと、良い世界に違いない。


 ある時、アフリカのある国の大統領が、アメリカ合衆国大統領との会談の席でこう尋ねた。
 「世代間倫理から考えると、親に対する『債務』は、死を持って消滅するのですか?」
 アメリカの元大学教授の大統領は、以前より薄くなった頭をさすりながら答えた。
 「いえ、そのようなことはありません。なぜなら、子の親に対する債務は、この世に生まれた瞬間から負うものでありますが、その中身は主に金銭的余裕・社会的地位をそのまま引き継いでいるという点にあります。債務は親がもたらしたことに対する債務であって、個体としての親の死とは直接関係ありません。」
 「なるほど。」


 数年たち、各国から乳幼児が消え、アフリカのあの大統領の国は、圧倒的世界第一位の経済大国になった。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

食卓のない家 (新潮文庫)

食卓のない家 (新潮文庫)

カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章28〜32段落

(28)しかし、純粋理性がどうして実践的であるのかを、理性によって説明するのは自らの限界を踏み越えることになる。

(29)自由というのは一個の理念であり、その客観的実在性を経験的に認識することはできない。
 決定論者は、人間のあらゆる行為は全て神ないし自然法則に従った結果だとして、「自由は不可能である」と断言する。しかし、この言葉は誤りである。
 つまり、決定論者は人間を自然法則に従順なだけの現象としてしか捉えていない。しかし、人間は感性界における現象としてのみではなく、叡知界の叡智者としての側面も併せ持っており、理念としての自由はその世界に存在しているということが分かれば、決定論者も先の言説を撤回することになろう。
 しかし、自由の理念はこのように、我々の認識できる範囲にはない概念であるから、積極的な証明は困難である。このように、あくまで消極的に「自由は不可能」という言説に対しての批判しか行うことはできない。

(30)意志の自由を説明することができないというのと、人間が道徳法則に対して持つ関心を説明するのが困難だというのは同じ位相にある。
 経験的な判断として、人間は道徳法則に対し一定の関心を持つ。この関心の基礎には、「道徳的感情」がある。
 アダム・スミスなどの道徳感情論者は、この道徳的感情こそが道徳的判定の基準だとしたが、これは逆である。道徳的感情は、道徳的法則が我々に対して影響を及ぼした結果発生する、主観的な概念である。道徳的判定を実際に行い、客観的根拠を及ぼすのは理性だけである。

(31)感性的な欲求や傾向性に触発される理性的存在者に対し、「べし」という義務の履行を推し進めるのは理性だけである。しかし、これが可能であるためには、理性が道徳的感情を喚起し、理性によって感性を理性の原理に従わせる必要がある。しかし、感性的な物を含まない理性において、どのようにして快や深いといった感情を発生させるのかは解明できない。結局、理性が意志の原因性となるにあたり、理念としての自由がそのような道徳的感情を喚起しているわけであるから、ここでもやはり理念としての自由を理性によって解明することができないというわけである。
 ただ、一点だけ確実なことが言える。道徳的法則は、我々の関心を喚起するから我々に妥当するのではない。もしそうだとすると、感性に依った他律的なものになる。そうではなくて、我々に妥当するからこそ、我々の関心を喚起するということである。
 法則は、叡智者としての我々から生じたものであり、現象としての我々はその叡智者としての性質に従属することになる。
 
(32)定言的命法はいかにして可能か、という問いには「自由の理念を提示し、この前提の必然性を認識できる」ということまで答えられる。道徳的法則の妥当性に確信を与えるには、これだけで良い。
 しかし、「なぜ自由という理念は可能か」という問いには答えられない。ただし、これまでの説明の通り、意志の自由を前提とすることは必然的であり、決定論者の言うような自然法則との矛盾はあり得ない。
 ただし、やはり純粋理性がいかにして道徳的関心を呼び起こすのか、純粋理性の実践性の源泉は何かということについては、全く答えることができず、これまでの哲学史においても全て失敗に至った。

カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章20〜27段落

(20)人間は誰もが自らの意志が自由に基づくと思っているから、「〇〇を為さなかったが、〇〇すべきだった」という判断が生じる。仮に我々が自由な存在者ではない、例えば石っころのような物であったとするならば、「〇〇すべき」というような判断は生じ得ない。自然法則に従うほかないからだ。だから、上述しているように現実にあった行為ではなく、あり得た行為を想定することができるのは、我々が自由な存在者であるという自覚をしているからである。
 「自由」という概念も「自然」という概念も、両方経験的な概念ではない。しかし、自然は経験的な実証が可能であり、更に経験に際してはこの「自然」が前提とされる。この点が「自由」と「自然」の差異である。「自由」は理性概念であり、現状ではその客観的実在性は担保されていない。

(21)この二つの概念について、「意志」という作用から考察すると、この二つの概念の矛盾性が浮き彫りになる。
 思弁的見地からは自然概念を強調するほうが上手く説明できる。その行きつく先はスピノザ的な決定論的見方になろう。
 しかし、道徳性や義務についても勘案するならば、「自由」の存在がそれら道徳性の意味を保障し、理性の使用を認められることになるだろう。哲学にとって、この「自由」と「自然」はどちらも放棄することはできない。

(22)自由の存在可能性の説明は現時点では困難だが、見かけの矛盾の解消は早急に行う必要がある。この矛盾が解消されなかったとき、「自由」は「自然」に敗れて放棄されることになる。

(23)この矛盾性を解消するための説明として二点挙げるとすると、『人間は自由だ』と言う場合に、あらゆる自然法則や生理的現象に従って生きる人間存在のことを指しているのではないということ。二点目は、「自由」と「自然(必然性)」は同一の主観において両立し、必ず一致するものだと考えるべきだということである。
 これらのことを頭に入れた上で考察し、矛盾を解消しようとするわけであるが、この矛盾は任意的に解消すべきかどうかを判断してよいものではない。この矛盾が解消されない時点で即刻、決定論者が自然必然性の優位を示し道徳哲学はその存在根拠を失うことになるだろう。

(24)この解決は、実践哲学ではなく思弁哲学の領域において解決されるべきものである。

(25)ただし、常識の観点から見ても「自由」はその存在を認められている。理性は、感性に基づく欲求や傾向性から独立して意思決定できるのだ、という意識を持っていることがその理由である。
 理性を持ち感性的欲求から独立した叡智者たる存在者として自らを措定するとき、同時に自らを自然法則に従う存在として、それぞれ異なった規定根拠に身を置くことは矛盾することなく成立する。物自体としての「叡智者」と、現象としての「人間」をわけるということである。

(26)叡智者としての我々は、純粋理性によって与えられる法則を定言的に適用される。傾向性や衝動によってその法則の存在は少しも揺らぐことはない。更に、その傾向性や衝動が発生することの責任も全く負わない。ただし、その傾向性や衝動を優遇し、純粋理性による法則を果たさなかった場合はその責任を行為者本人が負うことになる。

(27)感性によって理性が法則を認識し意志を規定するわけではない。理性の意志規定能力の一つの根拠は、消極的規定を持つ「自由」と積極的能力である「原因性」の結びつきである。この結びつきによって、理性は普遍的妥当性を条件とした意志の格律を生み出すことができるのである。
 

〜要約ここまで〜

27段落があんまりピンと来なかった。泣きたい。

カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章13〜19段落

(13)しかし、我々人間は理性を有しているという自覚を持っている。その理性は悟性より優っている。
 悟性は感性によって得られる表象を、一定の規則(カテゴリ)の中で悟性概念を作り出し、一つの意識に統覚する能力があるだけで、悟性は感性の使用をまたなければ思惟することはできないと言える。
 しかし、理性は感性や悟性から完全に離れた理念と呼ばれる理性概念を持つことで、純粋な自発性を我々に教える。更に、感性界と悟性界の区別を理性は行い、悟性の能力の限界設定を行うことで、理性の優越性を提示している。

(14)理性的存在者は、自らを道徳的に完全な存在、すなわち叡智者として認めるときには、自分を感性界ではなく悟性界に属するものとして見なさなければならない。
 しかし、我々は現実に感性界に生きる人間であるから、この叡智者たる自らの立場と感性界に生きる人間としての二つの立場と行為の法則について認識する。
 感性界にいる限りでは、我々はあらゆる自然法則に従わざるを得ず、他方で可想界(悟性界)に属するものとしては、自然法則などの経験的根拠ではなく、理性に根拠を持つような法則(=道徳的法則)に服従することになる。

(15)理性的存在者たる人間は、可想界に属する存在者として、自らの意志の原因性を自由を根拠にして捉えなければならない。自律の概念は自由の概念と不可分離的に結びつき、道徳性の普遍的原理は、自律の概念と不可分離的に結びついている。
 その上で、理性的存在者は自由を根拠とする意志を持つ存在者として、あらゆる行為の根底に道徳性の普遍的原理があるということがわかる。これは、感性界において自然法則があらゆる経験的事象の根底にあることと同様である。

(16)この章の最初で、自由から自律を、自律から道徳的法則を推論した。ここには、道徳的法則のために自由という理念を用いたので、このカントの意見に同意できる者でない限り、循環論証として退けられる可能性が潜んでいた。
 しかし、我々は感性界に属しながら悟性界にも同時に属する者として、道徳的法則を認識しその義務に従う者であると考えることを知っているので、この「循環論証ではないか」という懸念は払拭されることになる。
(この段落はよくわからなかったので、CiNiiなどで良い論文あったら教えてください)


<定言的命法はどうして可能か>


(17)理性的存在者は叡智者として悟性界に属する。このとき、自らの意志は悟性界における作用原因として認識される。と同時に、同じ理性的存在者は自らが感性界にも属することを知っている。この感性界では、理性的存在者の行為は全て単なる現象としてしか理解されない。欲求や傾向性と言ったものによって規定された行為としてしか認識され得ない。
 悟性界にのみ属する成員であったとしたら、全ての私の行為は普遍的道徳的法則と一致することになる。逆に、感性界だけに属する者だったとしたら、欲求などの自然法則に従う他律的な存在者とされる。
 しかし、悟性界は感性界の法則の根拠も含んだ、より高次な世界である。だから、感性界に属する存在者であったとしても、叡智者としては悟性界の法則、自由の理念による普遍的法則に従う。
 感性界に属しながら、悟性界の法則にも従属するとき、悟性界の意志の自律という原則は、感性界においては命法・義務となって現れる。

(18)私が可想界にのみ属する成員であったならば、私の全ての行為は意志の自律の原則に適合する。しかし、同時に感性界にも属するから、私は自律の原則に従う”べき”であるというようになる。
 感性的に触発される意志に、悟性界に属する純粋で自足的な実践的意志という理念が付与されることで、この定言的な「べし」はその効力を発揮する。

(19)極悪人と呼ばれるような人間であっても、情心や博愛心のもった人間を目の前にすれば、そのような心情に惹かれるであろう。更に、自らの欲望の強さが軽減されるならば、自分もそのような心情を持ちたいとさえ思うはずだ。
 彼は、感性界の中では悟性界の提示する法則に背いてはいるが、その法則の存在は認識している。その上で、その法則の権威を認めている。悟性界においては、彼も道徳的法則を「欲する」存在者であるが、感性界において極悪人とされる彼は、その「欲する」を「べし」という義務に置き換えて考えなければならない。感性界においては、悟性界の法則を無視して彼のように「極悪人」として振舞うことも可能ではあるが、この義務から逃れることはできない。


〜要約ここまで〜

あともう少し。
今日のところはよくわかったようで、やっぱりわからなかった。泣きたい。

ロジカル・シンキング


 私はなにぶん意識が高い。平均的大学生の値を軽く超える程意識が高い。平均以下の学ぶ意欲の無い者は私のことを「つまらぬ男」と切り捨てるが、そいつらの言うところの「面白さ」等、ちり紙交換にすら出せやしない。
 私は意識が高いので、常に最良の行動をとるべく行動前の行動を忘れない。それは単なる思弁ではない。哀れな人文知にすがる人間が、永遠に解けない形而上学的課題に取り組むのとはわけが違う。私が行動する前にする行動は、行動を前提とした行動である。

 だから私は、今からポモドーロ・テクニック*1を駆使し、今この時に為すべき行動を選択する。私ほどの人間であれば、1ポモドーロで十分だろう。

 まずはブレインストーミング*2だ。既に私のような意識の高い人間はお気づきであろうが、ブレインストーミング、通称「ブレスト」は集団で行うものだと相場は決まっている。しかし、極めて私的な領域の問題であれば、一人でブレストすることは容易い。最も、そこに至るには多くの修練を要するが。
 一人で行うブレストで用いるのは、「理性」である。「良識」と置き換えても良い。かつて「bon sensはこの世で最も公平に配分されているものである」と言った哲学者*3がいたが、私はそうは思わない。何故ならば、私には多く配分されているから一人でブレストを行うことも容易いが、その代わりに全く配分されなかったような人間がごまんといるからだ。無知のヴェール*4とやらが空虚な概念だというのが実にわかる。
 話が逸れた。私はその人より多く配分された「良識」を用いて、様々な角度から検証する。現在の時間、立場、体調、場所、これらのことを一挙に勘案する。もちろん、ブレストという特性上、突飛な案も受け入れる。「良識」という奴は、意外に「緊張と緩和」の使い方が上手い物だ。
 
 ブレストの結果出た案を総合して、グルーピング*5する。さすが広い視野のある私の「良識」である、出てきた案は雑多すぎる。私はこれらを適当にグルーピングし一つの表にする。当然といえば当然であるが、このグルーピングは完全にMECE*6である。無駄な重複や、一切の漏れもない。ブレストで出てきた案を文字通り「網羅」したグルーピング、すなわちMECEである。

 このMECEからロジックツリー*7を組み立てる。程度の低い人間は、このロジックツリーを冗長にさせる傾向にあるが、私はそのようなことはせず、極めて簡潔に、それでいて網羅性のある、比較検討が容易な形にすることができるのであり、その辺りは是非とも皆に真似ていただきたいところであるが、いかんせん私のレベルまで達するには多くの時間を必要とするから、そうそう真似はできないであろうが、それであってもチャレンジくらいはして欲しいものである。
 
 さて、大変優秀な私の「良識」達がブレストをし、その案をMECEという形で精巧に組み分け、そこからロジックツリーを組み立てた結果、今私が為すべき行動が出てきた。
 ちょうど、1ポモドーロが終わったところである。いいだろう、ポモドーロ間の休憩の間に済ませられるに相違ない。


 うんこしてくる。



方法序説 (岩波文庫)

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なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

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日本以外全部沈没―パニック短篇集 (角川文庫)

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カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章3〜12段落

(3)意志の自由が前提されると、自由の概念を分析するだけで、そこから道徳性原理が発見できる。
 しかし、この分析的手法を用いて発見された道徳性原理 ー「絶対に善なる意志は、その意志の格律が普遍的法則と見なされるところの自分自身を常にみずからのうちに含んでいるような意志である」ー は、綜合的命題である。
 
 説明を加える。分析的手法とは、「条件付きのものから始めて原理へ向かって進」*1むことであり、綜合的手法はそれとは逆で、「原理から始めて帰結へ、或いは単純なものから始めて合成或いは複合されたものへ向かう」*2ことである。
 また、分析的命題(判断)というのは、「述語Bが、主語Aのうちにすでに(隠されて)含まれているものとして主語Aに属する」*3ものであり、綜合的命題(判断)は「述語Bは主語Aと連結してはいるが、しかしまったくAの概念のそとにある」*4ということを指す。
 だから、自由の概念を分析的手法を用いて分析を推し進めた結果発見された道徳性原理が、綜合的命題であるということ自体は、なんら矛盾することではない。また、「端的に善なる意志」という概念分析的手法にかけたところで、どのような特性も発見され得ない。
 
 綜合的命題は、ある二つの認識を、その二つを内包した第三の認識と結びつけることで可能となる。この道徳性原理においては、その第三の認識の役割を果たすのは「自由」という概念である。ただ、いまここでその「自由」概念について詳細な記述をすることはできない。以後の準備が必要だからだ。


 <自由はすべての理性的存在者の意志の特性として前提されねばならない>


(4)道徳性が我々にとって法則という形で現れ出るのは、我々が理性的存在者であるということに起因する。だから、道徳性は全ての理性的存在者に共有されなければならない。
 そして、道徳性は自由という概念から導かれるものだとすると、自由そのものも全ての理性的存在者の意志の特性だと言える。ただし、「自由」は経験的に認識できるようなものでなく、ア・プリオリにその特性を説明しなければならない。

 その上で言うならば、意志を有する理性的存在者は、同時に自由の理念も必然的に保有していなければならない。その理念を持った上で行動する存在者であれば、自らを原因性として律することが可能であろう。
 「自由」は、その存在の証明はできない。つまり、経験的な観点から悟性を用いると、アンチノミーを引き起こす。しかしながら、理念すなわち対象として取り扱えないものとしての「自由」は十分に想定可能である。
 理論的見地からみれば、「あたかも自由であるかのように」しか振る舞えない。自動販売機を前にジュースを買う。私は自由に選んだかのようであるが、そもそも自動販売機には限られた数の商品しかなく、その時の渇き具合によって選好は規定され得るし、商品の配置によって選択に影響が出ていることはあり得る。そうであれば、自動販売機でジュースを買うという行為は自由であるとは言い難く、「あたかも」でしかない。
 しかし、実践的見地からみたときには、私はその時、確かに誰からの指図も受けず自らの意志で自動販売機に並んでいるものから好きなようにジュースを選んだ。これはまさしく「自由」そのものであると言える。
 
 理性は、その自らを行為原理の創始者として見なさなければ、道徳性原理の根幹を為す「自律」が成立しない。つまり、「理性的存在者の意志は、自由の理念のもとでのみ、彼自身の意志であり得る」*5
 
 
 <道徳性の諸理念に付帯する関心について>


(5)道徳性原理の基礎を自由の理念に置いた。しかし、これは我々が自らを理性を持ち、行為の原因性になりうる(=意志を持つ)存在者であるという風に見なすならば、という条件付きで認められるものであり、人間本性の中に確実に「自由」という概念が実在するということの証明には至っていない。

(6)この自由という理念を前提としたので、行為を規定する法則性も見出すことができる。*6
 しかし、何故我々はこの普遍的法則という原理に理性的存在者一般として服従しなければならないのか。この服従が、単なる関心ではないということは、人間の関心は定言的命法を付与しないということからも明らかである。それでも、純粋な実践的関心は持たざるをえない。
 実践的関心の存在は、その原理との距離感があることを示す。もし、理性的存在者において道徳性原理が完全に内面化されているとすれば、道徳性原理において示される「べし」は存在せず、全て「欲する」となる。
 しかし、我々は感性を有するために、理性単体での行為規定というのが困難な存在者である。だから「べし」は存在するし、我々存在者と原理との間の距離感を実践的関心は察知している。

(7)ところが我々は、自由という理念によって道徳的法則を前提できたというだけであり、法則が実在するのかとか客観的必然性をもっているのかということについては、何ら証明できていない。
 ・格律の普遍妥当性という原則は、なぜ我々の行為を制約する条件たるのか
 ・道徳的法則に従った行為の価値の根拠は何か
というような質問がされれば、それに満足に答えられることはない。

(8)ある幸福に値するような人格的性質は、その性質によってある状態(幸福)に向かうことが可能的だというだけで、我々の関心の対象に成り得る。例えば「カッコイイ」とか「優しい」とか。
 しかし、これらの判断は我々が道徳的法則の重要性を既に前提とした上での判断である。その道徳的法則の対象者である目的自体たる我々の人格に、その関心の対象と成り得るような個別的性質を超越した価値を見出すには、この種の経験的関心を拭い去る必要がある。
 そして、そのような関心を捨てて行為した上で我々は自らを自由であると認識する。それであっても、やはり我々はある種の法則に服従していると見なされる。
 この「道徳的法則の拘束力」の根拠は、これまでの説明では提供できない。

(9)我々が道徳的法則の中で目的自体として法則に服従していると考えるには、我々が作用原因の秩序の中で原因性を有する自由な存在であるということを想定する必要がある。
 しかしながら、そもそも理性的存在者である我々には意志の自由が与えられており、その後に道徳的法則に服従するとも考えられる。これは相反するのではなく、循環論法の形式をとっている。
 「意志の自由」と「意志が自ら自分自身に道徳的法則を与える」というのは、いずれも自律であり、外延を共にする概念である。

(10)ここで、この循環論法から抜け出すための方策について考察する。

(11)我々に対象を認識させるのは、対象が感官に働きかけるからであるが、対象それ自体がどのようなものかというのは認識し得ない。物自体は認識できない。我々が知るのは、物自体がどうやって我々を触発するかという方法だけである。
 感性によって認識する感性界は個別的な存在者の特性によって様々な表象となるが、感性界の根底にある悟性界は皆共通・不変である。感性を異にしても、そこから認識へと至るために悟性を用いる際、その悟性に普遍性が無ければ我々は「認識」を認識できない。

 これは、人間・自分自身に対しても同様に適用され、自らの事柄であっても彼が認識できるのは現象として現れる彼であり、物自体としての「彼」ではない。人間はその認識を超越しようと、現象の合成である自らではなく、その根底にある「私」を想定したがる。

(12)11段落で認めたことは、我々の普通の悟性・常識を用いれば辿りつける結論である。しかし、常識は感官の対象の背後にある見えないものを、本来は人間の認識の外にあるものなのに、感性の対象として扱おうとするため、11段落のような結論に至らない。
 「そしてこういうことをするから、常識は少しも賢くならないのである。」


〜要約ここまで〜

うおおおおおおあああああああああ

*1:p21 訳註

*2:p21 訳註

*3:p77 訳註

*4:p77 訳註

*5:p145

*6:第三章2段落要約文参照

不振の五月

 言い訳すると、「読書」以外のことはちゃんとしてたつもりなんだけど、いかんせん4月までと比較するともの凄い読書量が減ってしまって大変である。そして今も色々あってイマイチな感じである。とりあえずやる。

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んでまあ今月の一冊を何にしようかなーって思って、大体☆5から選ぶ感じになるんだけど、今月はこれ

勉強になった。非常にラディカルな表現もたまに出てくるが、おおむね条文や判例に対して誠実だという印象。弁護団長を努めた人間であるから、当然といえば当然であるが、ここに書いてあることだけで判断すると、帝銀事件は相当怖い事件だと思う。

科学的見地から平沢犯人説を唱える本があるらしいので、それも読んでみたい。


 先月のある時期に、「日本戦後史ブーム」が個人的に到来していて、その時に読んだ。レビューの通り、眉唾なとこもあるけれど、概ね良い内容。勉強にもなる。そして怖くなる。
珍しく図書館で借りて読んだ。まあ本代は馬鹿にならないしね。

 そんな感じで、じゃあまた来月。