コミュニタリアニズム

 「この責任はどう取るんですか!」「被害者遺族に謝罪の言葉はないんですか!」「あなたは、加害者の親なんですよ!そのことを理解されてるんですか!」
 
 テレビからは未成年の猟奇殺人犯の親が、涙を浮かべながら報道陣の不躾な言葉に耐えているシーンが流れている。
 「しかし、ひどいな。やりすぎじゃないか。」
 「だけど親だしなあ。そういう子どもに育てた一定の責任はあるんじゃないのか?」
 「責任て…。だいたい子どもと過ごしっぱなしの時間なんて、就学前の5,6年の話だろ?学校に行くようになれば、親なんかより同級生や先生から影響されることの方が多い。そういうお前は、自分の子どもがどういう生活を送ってどういう人間になってるか、本当にわかってるのか?」
 「そんなの当たり前だろ。わかってるに決まってるじゃないか。親なんだから。」



 「責任って言葉の意味わかりますか?」「あなたは、その犯罪者の遺産を受け継いで今まで生きてこれたんですよね?正の遺産だけはもらって、負債は無視っていうのは都合が良すぎるのでは?」

 テレビからは強盗殺人犯の子が、嗚咽しながら報道陣と会話するシーンが流れている。
 「こういうのよくないんじゃないか?」
 「なに言ってるんだよ、しょうがないことだ。」
 「だっておかしいだろ、子どもが親の責任を追求されるなんて。」
 「おかしいことあるかよ。大体な、子どもっていうのは、生まれた時から何の努力もなしで寵愛を受け、お金だったり社会的な名誉だったりを自動的に受け継ぐことになるんだぞ?それでいて昔は親に子どもの責任を取らせてたんだから、子どもだけが得する社会だったんだ。そっちの方がおかしいよ。」
 「だけどなあ、これじゃあイジメじゃないか…。」
 「確かに、親が犯罪者だということが明るみになって、学校でイジメられる子どもというのは昔からいた。しかし、それはただの偏見だ。『親が犯罪者なのだから、子もそれに匹敵する悪者に違いない』という無根拠な誹謗だ。それはいけないことだろう。けど、今は違う。子どもに問うているのは、あくまで『責任』だ。家庭環境とか境遇もそうだけど、借金だって遺産なんだよ。」



 「あー、これ懐かしいなあ。」
 友人が引越しをするというから、荷造りの手伝いをしていたのだが、懐かしい本が出てきた。
 ずっと本のタイトルが出てこなかったのだが、初めて読んだ時の面白さだけは頭に残っていた。最初に読んだのは中学生の頃だったろうか。その時点で既に結構な古い本だった。
この本は、文学・教育学・歴史学民俗学など多方面から支持されてきた。「プレモダンの大作」と呼ばれていた気がする。
 書かれた時代を考えれば、これほど先進的な見方を提示できるものも珍しい。この本では、革命を志す若者が、ある団体に入り犯罪の片棒を担ぐことになる。そこまでは、よくある闘争記であるが、この作品の肝はそこではない。当然、その時代にあっては若者の親への非難、責任追及が激しい。しかし、その親はこの非難に決して屈せず、自らの「親の責任」を放棄しようとし続け、周りの人間もそれをサポートしていくのだ。この前時代的価値観に対して戦う姿勢を見せる作品は、「現代の夜明け」に相応しい作品だった。
 ただ、これが「プレモダン」止まりなのは、「子の行為に対する親の責任の放棄」までしか問えていないという点にある。やはり現代の重要なパースペクティブはその先にある。


 正弥君と下校しながら、僕は今日の授業内容を頭の中で反復していた。何かおかしい気がする。けど、どこがおかしいかはわからない。先生の言ってることは、凄く理論的に正しいように感じる。ただ、妙な引っかかりだけが残って消えない。こういうことを話すのはちょっと恥ずかしいけど、正弥君に聞いてみることにした。
 「僕、やっぱり思うんだけど、子は親を選べるわけではないのに、親のしたことに責任を取るのはおかしい気がするよ…。」
 正弥君は少し呆れているようだった。
 「君はちゃんと授業聞いていたのかい?だとしたらおかしいね、何言ってるんだい?親だって子どもを選べないじゃないか。しかも先に生まれただけあって、地位も名誉も子どもより大きい。それなのに、ブサイクかもしれない、頭が悪いかもしれない自分の子どもに対して様々な施しをする。お金の負担だって馬鹿にならない。僕らはそういう親の犠牲の上にここまで生きてこれたんだろう?責任をとることくらい、わけないよ。」

 こういうのを『正論』というのだろう。テストで書けば100点だ。それくらい僕にだってわかっている。
 昔は『モラトリアム』なんて言って、特に何をしたいわけでもないのに大学に進学する人が多かったそうだ。だけど、今はそんな人はいない。みんな、早く『親』になりたかった。だからなるべく早く就職をしたがる。就職するには勉強しなきゃいけない。歳をとってる人たちは、みんな大学まで出てるから、自らと同程度の知的水準であることを新入社員には望む。それと早く就職したいという常識的観念が対立する。みんなよく勉強をする。真のエリートは中卒だ。その年齢にして職にありつけた優秀な人達だ。僕はそこまで優秀じゃないから、高校くらいは行くことになるだろう。大学まで行くとなると、そこまでいかないと就職ができない相当の落ちこぼれか、気がおかしくなった人だけだろう。(こういう人は今も昔も、ある程度いたらしい)
 みんな、親になって『債権者』になるのを夢見た。少子化はとっくに解消されていた。どうせなら、より多くの人間の『債権者』になるほうが良いからだ。もっとも、債権者になったからといって『親』に対する『債務』は消えるわけではない。ただし、自らの債務を子という債権者に、債務手形のようにたらい回しにすることはできた。
 その世界を、みんなが選んできた。だからきっと、良い世界に違いない。


 ある時、アフリカのある国の大統領が、アメリカ合衆国大統領との会談の席でこう尋ねた。
 「世代間倫理から考えると、親に対する『債務』は、死を持って消滅するのですか?」
 アメリカの元大学教授の大統領は、以前より薄くなった頭をさすりながら答えた。
 「いえ、そのようなことはありません。なぜなら、子の親に対する債務は、この世に生まれた瞬間から負うものでありますが、その中身は主に金銭的余裕・社会的地位をそのまま引き継いでいるという点にあります。債務は親がもたらしたことに対する債務であって、個体としての親の死とは直接関係ありません。」
 「なるほど。」


 数年たち、各国から乳幼児が消え、アフリカのあの大統領の国は、圧倒的世界第一位の経済大国になった。


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

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食卓のない家 (新潮文庫)

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