カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章28〜32段落

(28)しかし、純粋理性がどうして実践的であるのかを、理性によって説明するのは自らの限界を踏み越えることになる。

(29)自由というのは一個の理念であり、その客観的実在性を経験的に認識することはできない。
 決定論者は、人間のあらゆる行為は全て神ないし自然法則に従った結果だとして、「自由は不可能である」と断言する。しかし、この言葉は誤りである。
 つまり、決定論者は人間を自然法則に従順なだけの現象としてしか捉えていない。しかし、人間は感性界における現象としてのみではなく、叡知界の叡智者としての側面も併せ持っており、理念としての自由はその世界に存在しているということが分かれば、決定論者も先の言説を撤回することになろう。
 しかし、自由の理念はこのように、我々の認識できる範囲にはない概念であるから、積極的な証明は困難である。このように、あくまで消極的に「自由は不可能」という言説に対しての批判しか行うことはできない。

(30)意志の自由を説明することができないというのと、人間が道徳法則に対して持つ関心を説明するのが困難だというのは同じ位相にある。
 経験的な判断として、人間は道徳法則に対し一定の関心を持つ。この関心の基礎には、「道徳的感情」がある。
 アダム・スミスなどの道徳感情論者は、この道徳的感情こそが道徳的判定の基準だとしたが、これは逆である。道徳的感情は、道徳的法則が我々に対して影響を及ぼした結果発生する、主観的な概念である。道徳的判定を実際に行い、客観的根拠を及ぼすのは理性だけである。

(31)感性的な欲求や傾向性に触発される理性的存在者に対し、「べし」という義務の履行を推し進めるのは理性だけである。しかし、これが可能であるためには、理性が道徳的感情を喚起し、理性によって感性を理性の原理に従わせる必要がある。しかし、感性的な物を含まない理性において、どのようにして快や深いといった感情を発生させるのかは解明できない。結局、理性が意志の原因性となるにあたり、理念としての自由がそのような道徳的感情を喚起しているわけであるから、ここでもやはり理念としての自由を理性によって解明することができないというわけである。
 ただ、一点だけ確実なことが言える。道徳的法則は、我々の関心を喚起するから我々に妥当するのではない。もしそうだとすると、感性に依った他律的なものになる。そうではなくて、我々に妥当するからこそ、我々の関心を喚起するということである。
 法則は、叡智者としての我々から生じたものであり、現象としての我々はその叡智者としての性質に従属することになる。
 
(32)定言的命法はいかにして可能か、という問いには「自由の理念を提示し、この前提の必然性を認識できる」ということまで答えられる。道徳的法則の妥当性に確信を与えるには、これだけで良い。
 しかし、「なぜ自由という理念は可能か」という問いには答えられない。ただし、これまでの説明の通り、意志の自由を前提とすることは必然的であり、決定論者の言うような自然法則との矛盾はあり得ない。
 ただし、やはり純粋理性がいかにして道徳的関心を呼び起こすのか、純粋理性の実践性の源泉は何かということについては、全く答えることができず、これまでの哲学史においても全て失敗に至った。