カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章20〜27段落

(20)人間は誰もが自らの意志が自由に基づくと思っているから、「〇〇を為さなかったが、〇〇すべきだった」という判断が生じる。仮に我々が自由な存在者ではない、例えば石っころのような物であったとするならば、「〇〇すべき」というような判断は生じ得ない。自然法則に従うほかないからだ。だから、上述しているように現実にあった行為ではなく、あり得た行為を想定することができるのは、我々が自由な存在者であるという自覚をしているからである。
 「自由」という概念も「自然」という概念も、両方経験的な概念ではない。しかし、自然は経験的な実証が可能であり、更に経験に際してはこの「自然」が前提とされる。この点が「自由」と「自然」の差異である。「自由」は理性概念であり、現状ではその客観的実在性は担保されていない。

(21)この二つの概念について、「意志」という作用から考察すると、この二つの概念の矛盾性が浮き彫りになる。
 思弁的見地からは自然概念を強調するほうが上手く説明できる。その行きつく先はスピノザ的な決定論的見方になろう。
 しかし、道徳性や義務についても勘案するならば、「自由」の存在がそれら道徳性の意味を保障し、理性の使用を認められることになるだろう。哲学にとって、この「自由」と「自然」はどちらも放棄することはできない。

(22)自由の存在可能性の説明は現時点では困難だが、見かけの矛盾の解消は早急に行う必要がある。この矛盾が解消されなかったとき、「自由」は「自然」に敗れて放棄されることになる。

(23)この矛盾性を解消するための説明として二点挙げるとすると、『人間は自由だ』と言う場合に、あらゆる自然法則や生理的現象に従って生きる人間存在のことを指しているのではないということ。二点目は、「自由」と「自然(必然性)」は同一の主観において両立し、必ず一致するものだと考えるべきだということである。
 これらのことを頭に入れた上で考察し、矛盾を解消しようとするわけであるが、この矛盾は任意的に解消すべきかどうかを判断してよいものではない。この矛盾が解消されない時点で即刻、決定論者が自然必然性の優位を示し道徳哲学はその存在根拠を失うことになるだろう。

(24)この解決は、実践哲学ではなく思弁哲学の領域において解決されるべきものである。

(25)ただし、常識の観点から見ても「自由」はその存在を認められている。理性は、感性に基づく欲求や傾向性から独立して意思決定できるのだ、という意識を持っていることがその理由である。
 理性を持ち感性的欲求から独立した叡智者たる存在者として自らを措定するとき、同時に自らを自然法則に従う存在として、それぞれ異なった規定根拠に身を置くことは矛盾することなく成立する。物自体としての「叡智者」と、現象としての「人間」をわけるということである。

(26)叡智者としての我々は、純粋理性によって与えられる法則を定言的に適用される。傾向性や衝動によってその法則の存在は少しも揺らぐことはない。更に、その傾向性や衝動が発生することの責任も全く負わない。ただし、その傾向性や衝動を優遇し、純粋理性による法則を果たさなかった場合はその責任を行為者本人が負うことになる。

(27)感性によって理性が法則を認識し意志を規定するわけではない。理性の意志規定能力の一つの根拠は、消極的規定を持つ「自由」と積極的能力である「原因性」の結びつきである。この結びつきによって、理性は普遍的妥当性を条件とした意志の格律を生み出すことができるのである。
 

〜要約ここまで〜

27段落があんまりピンと来なかった。泣きたい。