カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章13〜19段落

(13)しかし、我々人間は理性を有しているという自覚を持っている。その理性は悟性より優っている。
 悟性は感性によって得られる表象を、一定の規則(カテゴリ)の中で悟性概念を作り出し、一つの意識に統覚する能力があるだけで、悟性は感性の使用をまたなければ思惟することはできないと言える。
 しかし、理性は感性や悟性から完全に離れた理念と呼ばれる理性概念を持つことで、純粋な自発性を我々に教える。更に、感性界と悟性界の区別を理性は行い、悟性の能力の限界設定を行うことで、理性の優越性を提示している。

(14)理性的存在者は、自らを道徳的に完全な存在、すなわち叡智者として認めるときには、自分を感性界ではなく悟性界に属するものとして見なさなければならない。
 しかし、我々は現実に感性界に生きる人間であるから、この叡智者たる自らの立場と感性界に生きる人間としての二つの立場と行為の法則について認識する。
 感性界にいる限りでは、我々はあらゆる自然法則に従わざるを得ず、他方で可想界(悟性界)に属するものとしては、自然法則などの経験的根拠ではなく、理性に根拠を持つような法則(=道徳的法則)に服従することになる。

(15)理性的存在者たる人間は、可想界に属する存在者として、自らの意志の原因性を自由を根拠にして捉えなければならない。自律の概念は自由の概念と不可分離的に結びつき、道徳性の普遍的原理は、自律の概念と不可分離的に結びついている。
 その上で、理性的存在者は自由を根拠とする意志を持つ存在者として、あらゆる行為の根底に道徳性の普遍的原理があるということがわかる。これは、感性界において自然法則があらゆる経験的事象の根底にあることと同様である。

(16)この章の最初で、自由から自律を、自律から道徳的法則を推論した。ここには、道徳的法則のために自由という理念を用いたので、このカントの意見に同意できる者でない限り、循環論証として退けられる可能性が潜んでいた。
 しかし、我々は感性界に属しながら悟性界にも同時に属する者として、道徳的法則を認識しその義務に従う者であると考えることを知っているので、この「循環論証ではないか」という懸念は払拭されることになる。
(この段落はよくわからなかったので、CiNiiなどで良い論文あったら教えてください)


<定言的命法はどうして可能か>


(17)理性的存在者は叡智者として悟性界に属する。このとき、自らの意志は悟性界における作用原因として認識される。と同時に、同じ理性的存在者は自らが感性界にも属することを知っている。この感性界では、理性的存在者の行為は全て単なる現象としてしか理解されない。欲求や傾向性と言ったものによって規定された行為としてしか認識され得ない。
 悟性界にのみ属する成員であったとしたら、全ての私の行為は普遍的道徳的法則と一致することになる。逆に、感性界だけに属する者だったとしたら、欲求などの自然法則に従う他律的な存在者とされる。
 しかし、悟性界は感性界の法則の根拠も含んだ、より高次な世界である。だから、感性界に属する存在者であったとしても、叡智者としては悟性界の法則、自由の理念による普遍的法則に従う。
 感性界に属しながら、悟性界の法則にも従属するとき、悟性界の意志の自律という原則は、感性界においては命法・義務となって現れる。

(18)私が可想界にのみ属する成員であったならば、私の全ての行為は意志の自律の原則に適合する。しかし、同時に感性界にも属するから、私は自律の原則に従う”べき”であるというようになる。
 感性的に触発される意志に、悟性界に属する純粋で自足的な実践的意志という理念が付与されることで、この定言的な「べし」はその効力を発揮する。

(19)極悪人と呼ばれるような人間であっても、情心や博愛心のもった人間を目の前にすれば、そのような心情に惹かれるであろう。更に、自らの欲望の強さが軽減されるならば、自分もそのような心情を持ちたいとさえ思うはずだ。
 彼は、感性界の中では悟性界の提示する法則に背いてはいるが、その法則の存在は認識している。その上で、その法則の権威を認めている。悟性界においては、彼も道徳的法則を「欲する」存在者であるが、感性界において極悪人とされる彼は、その「欲する」を「べし」という義務に置き換えて考えなければならない。感性界においては、悟性界の法則を無視して彼のように「極悪人」として振舞うことも可能ではあるが、この義務から逃れることはできない。


〜要約ここまで〜

あともう少し。
今日のところはよくわかったようで、やっぱりわからなかった。泣きたい。