カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章89〜第三章2段落
(89) 人間が何らかの意志を持つ時に、その意志の根拠を客体(目的)に設定しているとき、その意志は他律的なものとなる。「もし我々がこの客体を欲するならば、或いはー我々はこの客体を欲するが故に、しかじかの行為を為すべきである」という命法になるということだ。決して提言的にはなり得ない。
客体を根拠とした意志規定については、二つのパターンがありうる。まず、自らの幸福の原理を基として傾向性に委ねる場合と、あくまで理性的に自らの欠落した部分を補完するという完全性の原理に基づいて意志を規定する場合である。前者はすなわち功利的に、「◯◯をすれば□□の結果を得られるので、◯◯する」という形である。後者について、多少の説明を加える。
カントの自律的な意志規定に際して、それは極めて理性的に行われるものであるという認識が強いように思う。その点では、ストイックに完全な存在者を目指して意志を規定するというのは、とても理性的な在り方であるように感じる。
しかし、そもそもカントのいう「理性」の機能とは何であるか。
「理性は推論の能力だから、何かあるものが現象として与えられていると、その関係の系列をどこまでも推論して「完全性」や「全体性」に、つまり「絶対的な無条件者」に行きつくまで推論をやめないという本性をもっている。」*1
ということであれば、一般に言うような「理性的な行動=自律的=道徳的」という図式は成り立たず、「我々の可能的な意欲一般の対象に向けられた理性を介」して意志を規定するということは、端的に理性の本性通りの行動であり、それはカントの求める自律的・定言的な意志規定ではないと言える。
であるから、幸福の原理であろうと完全性の原理であろうと、意志が直接的に意志そのものを規定するのではなく、行為に伴う結果(幸福・完全な存在)を見越した上での意志規定と言える。
このような法則は経験的にしか認識されず、極めて偶然的なものである。これは道徳的法則に求められる確然性を有しておらず、意志の他律に他ならない。
(90) 絶対的に善なる意志の原理は、定言的命法でなければならない。だから、客体について規定することは無く、意欲の形式のみを規定する。
それぞれの人間が持つ善意志の行為格律が、その格律自身を普遍的法則として設定し得るということが唯一の法則と言える。理性的存在者の意志は、この法則を自らに課すものであり、なんらかの傾向性に基づいて規定するものではない。
(91) これまでの第二章で行なってきたのは、「道徳性」という概念を分析することによって、その道徳性概念の中に意志の自律という原理が内包されているということを明らかにするということであった。それは、道徳性が実在するものであると考える人ならば皆同意する原理であるが、しかしこれまでの章ではその道徳性が空想的な理念であると考える人達に対する説得材料は無い。道徳性の実在を認めさすには道徳概念の分析ではなく、純粋実践理性の綜合的使用から導かれる必要がある。
第三章ではその純粋実践理性という理性能力の批判を要点としてまとめることになる。
第三章
(1) 「意志」は理性的存在者にとって、何らかの結果を引き起こしうる原因性を有している。「自由」も外的な原因に関わりなく結果を引き起こしうる原因性を有していると言える。つまり、何らかの要因によって突き動かされるのではなく、「或る状態をみずから始める能力」を持っているというのが「自由」の定義である。「自然必然性」も、それ自体がきっかけとなって結果を引き起こす原因になるという点で「自由」と似た形の原因性を有している。
(2) 原因性という概念は、因果関係の流れの中に組み込まれており、必然的に法則という概念を内包している。<原因>によって、<結果>が引き起こされるとき、その<原因>と<結果>の中に何らかの法則性を見出すから、それらを<原因>と<結果>として見なすということである。
そして、「自由」という概念は、自然法則に従うものではないにしろ、このような意味での法則性は有している。では自由概念が持つ法則性とは何か。そもそも、理性的存在者の意志というのは、「理性が傾向性にかかわりなく、実践的に必然的と認められるところのもの、すなわち善と認めるところのものだけを選択する能力」*2である。「実践的に必然的と認められる」というのは「合法則的」ということであり、すなわち自律的な定言的命法を自らに課すということである。
つまり、「自由」な意志という概念はこのような意志の特性に基づく法則性を有しており、更にその法則性は道徳的法則と同じ定言的命法を採用している。自由意志と道徳的法則に従う意志は、この時点では同一のものと言える。
〜要約ここまで〜
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カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章81〜88段落
−道徳性の最高原理としての意志の自律−
(81)意志の自律という原則は、意志自身に内包されている性質と言える。だから、意志の自律の原理は「意欲が何かを選択する場合には、その選択の格律が当の意欲そのもののなかに、同時に普遍的法則として含まれているような仕方でしか選択してはならない」となる。
この実践的規則がそれぞれの理性的存在者の意志を制約しているということは綜合的(概念の拡張が可能な方法)に認識されなければならず、この自律原理という概念を分析していっても、その制約が実際に為されているかどうかということは認識できない。
ただし、この自律の原理が道徳哲学における唯一の原理であるということは、自律の原理が定言的命法として与えられ、更にその命法が自律ということを命令するということから、道徳の諸概念を分析するだけで十分に辿りつける。
−道徳性のあらゆる偽の原理の厳選としての意志の他律−
(82)意志が自らの内にではなく、意志の対象としての目的に自らを規定すべき法則を措定することを(自律と相反する)他律という。この対象による意志規定は、意志が自らに法則を与えるということを不可能にし、対象が意志に法則を付与することになる。この場合、対象と意志の関係が、傾向性であろうと合理的な判断であろうと、仮言的命法としてしか成立しない。
「私は、何々を欲するが故に何か或ることを為すべきである」というのが仮言的命法で、「私は何ものも欲しないにせよ、しかじかのことを為すべきである」と命ずるのが定言的命法である。定言的命法は、対象が意志に与えうる影響を全て排除した上で成立する。そして、その定言的命法のみが道徳的価値を有する。
−他律を道徳性の根本概念と想定した場合にこの概念から生じ得るすべての原理の分類−
(83)※非常にカッコイイことを言ってますが、上手く説明できませんし、本論にも直接影響は出ない模様
(84)他律原理は二つの原理から成り、それぞれ経験的原理と合理的原理(理性的根拠)である。更に、経験的原理は幸福の原理から生じ、自然的・道徳的感情から成立している。合理的原理は理性にもとづく完全性か、独立した完全性という神概念によって成立する。すなわち、他律の原理は自然的感情にもとづく幸福の原理・道徳的感情にもとづく幸福の原理・人間理性における完全性の原理・神概念における完全性の原理という4つの原理から成立している。
(85)先の84段落における経験的原理は道徳法則の根拠にはなり得ない。しかしながらそれは、道徳的法則の普遍性は人間の個別の偶然的環境によって左右されるようなものではないから、というのが最大の理由ではない。
そうではなく、この経験的原理(この場合は<自然的感情にもとづく幸福の原理>)が道徳性の根拠として措定しようとするものは、あらゆる道徳性を完全に転覆させ、善意志とそうでない意志との区別を無化し、功利的な判断で行為せよというように指し示すから、道徳法則の根拠とはなり得ないのである。
対してもう一方の経験的原理、すなわち道徳的感情にもとづく幸福の原理では、一定の道徳性への敬意を払い、例え傾向性に基づく道徳的行為だったとしても、その傾向性は直接道徳性と結びついているという点で、先の自然的感情に基づく原理よりは相対的に良い。
(86)人間理性にもとづいた完全性という概念は、規定することができない。それだけで自足しているストア派が理想とする賢者のようなものを措定することは可能ではある。それでもこのような完全性を道徳根拠としようとすると、実はこの完全性によって道徳性を語ることができず、完全性は道徳性を有し、道徳性は完全性を有するというような循環論法に陥らざるを得ないことがわかる。しかし、神概念による完全性の原理よりは幾許かマシと言える。
神概念の完全性は我々は直観することができない。それこそが神概念の高潔さを象徴しているとも言えるが、直観できないのであれば、我々が考えられうる神の意志というのは、権力欲や支配欲、それに伴う罰などというような、人間特有の性質を道徳体系の基礎としなければならないからである。
(87)85段落で説明された道徳的感情概念と人間理性にもとづく完全性のどちらかを、道徳的根拠として選択しなければならないとすれば、それは人間理性にもとづく完全性を選択する。
それは、道徳的感情の場合と比較して、問題の所在を感性から引き離し純粋理性の問題として取り扱うからである。
(88)結局、これまで見てきたような4つの原理は、それぞれが意志の他律を道徳性の根拠と設定している。自律ではなく他律であるという点で、本来の道徳性の保護という目的を達成できないとの結果を招く。
〜要約ここまで〜
やることはたくさん
カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章79(127頁4行目)〜80段落
(79)道徳性は自律的な普遍的立法を行う意志と行為との関係の中に存在するという。自律的意志によって導かれる行為は道徳的に許容されるし、そうでない行為は道徳的に否定される。
また、意志の格律が何の操作も無しに必然的に自律の法則と合致するとしたら、その意志は神聖で完全な善なる意志と言える。しかし、必ずしも完全に善であると言えない意志が自律原理に則して道徳的強制を持ったとき、そこに「責任」という概念が生ずる。この「責任」に基づく行為は客観的な必然性を持っており、それが「義務」と呼ばれる。であるから完全に善なる意志を持てるような神聖な存在者には「責任」や「義務」といった概念は適用されない。
(80)つまりカントによれば「義務」というのは、已むを得ず道徳法則に従うことに他ならない。しかしそれでもなお、その義務を履行する人格に尊厳を与えるのは何故かと説明する。
カントとしても、ある存在者が単に法則に服従しているというだけであるならば、そこには何の崇高さも無いとしているが、しかし理性的存在者は道徳法則の立法者という側面を持ち、そこで更にその法則に従うという点で尊敬に値するとしている。
ある行為が道徳的であるかという判定の基準となるのは、強制に伴う恐怖心や自らの心地良さを望む傾向性などではなく、端的に法則に対して敬意を払っているかという点に絞られる。
我々の意志が、普遍的立法の原理に則った行為格律の規定を行うのであれば、その意志は尊敬の対象であるし、人間性の尊厳も、この普遍的立法を行うという能力そのものによって成立するという。当然、この場合我々は自らの意志で課した普遍的立法に対し、自ら服従するという制約に従っている。
〜要約ここまで〜
日々減退
カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章78〜79段落(127頁4行目まで)
(78)理性的存在者とその他の存在者を区別する要因は、自分自身に目的を設定するという特性にあるという。このような目的が善意思の本質であるとも言う。
この場合の目的というのは、個別の存在者が想定する一般的な用法での”目的”(「学校を卒業するために〜」「幸せになるために〜」「モテるために〜」等)とは一線を画す。ここでの目的というのは、あらゆる条件から自立した「目的」であり、消極的にのみ想定され得るという。
この「目的」は手段としてのみでなく、同時に目的としても考えられなければならず、このような「目的」は「主体」そのものにほかならない。更にこの「主体」は絶対的善意思の主体でもある。すなわち、ここでカントは「目的」(主体)が自らを目的として規定できるような「目的」が善意思の根幹を為すのであり、条件付きの一般的目的から善意思は導き出せないとしている。
(79)理性的存在者が想定する格律が普遍的法則として相応しいということが、目的自体たる理性的存在者の特性であるから、目的自体としての理性的存在者は、自分自身を普遍的立法を行う主体として見なさなければならない。同時に、理性的存在者が他の単なる自然的存在者から見て優越した尊厳を持っているのは、自分のみならず他の理性的存在者も立法する主体的存在者(人格)であるという理由からであることを確認しなければならない。「目的の国」というのは、このような存在者から成る世界である。
理性的存在者は常に普遍的な「目的の国」において立法する成員であるかのように行為する。この場合の行為格律の形式的原理は「君の格律が、あたかも同時に普遍的自然法則(すべての理性的存在者に妥当する)として役立つかのように行為せよ」となる。つまり、この「目的の国」は、「〜かのように」という類推によってのみ可能な理念と言える。自然の国は、外部法則によって支配された因果関係によって成立するが、目的の国は理性的存在者が自らに課す規則によって成立する。
このような目的の国は理性的存在者全てが定言的命法を順守した場合に実現する。しかし、ある理性的存在者が定言的命法を順守した行為格律を措定したとしても、他の理性的存在者全てが忠実に順守することは期待できない。それは我々理性的存在者は身体性のある不完全な理性的存在者だからである。
しかしそれでも「君は、単に可能的であるにすぎない目的の国において普遍的に立法する成員の格律に従って行為せよ」という法則は、充分な効力を持っている。第一に、理性的存在者の人間性の尊厳のみが意志規定の根源であるべきであるということ、第二に、この法則はあらゆる動機から離れたところにあり、そうであるから目的の国において理性的存在者が立法する成員に値するからだという。
目的の国が単なる理念だけでなく、実在性を持つということになれば、それはそれで良いことかもしれないが、目的の国という理念そのものの価値が増加するとかそういうことにはならない。仮に実在性を保有していたとしても、理性的存在者の価値判定においては、「目的の国における普遍的立法」に基づいて非利己的行動をとっているかどうかということが判定基準に成り得るからである。
〜要約ここまで〜
わかったと 思うときほど わかってない
カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章76〜77段落
(76)これまでの(74)(75)段落で確認した方式の通りに確認をすると、全ての格律は普遍的法則を自らに与えるという意味の「立法」をすることによって、この現実の社会関係においても「目的の国」と調和すべきであると捉える。「目的の国」というのは実践的理念として、現実に存在はしない思弁上の産物ではあるが、我々の行動如何によって実現可能な理念である。
道徳的判定は常に厳密に行い、定言的命法の普遍的方式を基礎に行うべきとしている。その方式が「それ自身を同時に普遍的法則たらしめ得るような格律に従って行為せよ」というものであるが、基本的にはこれまでの流れで確認してきた方式の言い換えであると言える。
(77)ここで最初の出発点であった、「無条件的に善なる意志」という概念についてまとめられる。「無条件的に善なる意志」というのは、悪にはなり得ない、普遍的妥当性を有する意志と言える。「君の格律がいついかなる場合でも同時に法則として普遍性をもち得るような格律に従って行為せよ」という原理は、この「無条件的に善なる意志」の条件に適合する意志を導く法則である。この原理こそが「定言的命法」であるとカントはしている。
ある現実的個物は自然法則に従って連結している。この自然法則というのが自然を自然たらしめている形式であると言える。「意志」の場合も、この現実的個物と自然法則との類似が見られる。可能的行為は普遍的法則に妥当することで、道徳的な「意志」とみなされるという点がそれである。普遍的法則に妥当するということが、あらゆる可能的行為から道徳的意志を抽出する。
つまり、絶対的な善なる意志の方式というのは「格律それ自体が普遍的自然法則として対象化できる格律に従って行為せよ」(宇都宮訳)というものである。
ここでもカントの自然科学者然とする姿勢が伺える。カントが求める道徳法則は、自然法則の如き強度を持っていなければならない。ただ一点異なるのは、黙っていても法則に従っていることになる自然法則とは違い、カントの言う道徳法則は理性的存在者の意志によって導かれる必要があるという点である。
〜要約ここまで〜
GW明けから無気力感が半端ない。どうしたものか。
カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章72〜75段落
(72)このように「道徳的」と言える条件を厳しく設定できるのはなんのためであるか。
理性的存在者は身体性に由来する自然法則の制約、すなわち身体的欲求や傾向性からは自由であり、理性的存在者自身が自らに課す普遍的法則に服従することになる。あらゆる理性的存在者は、その普遍的法則が規定する価値しか持ち得ない。
自らに普遍的法則を課す、すなわち「立法」という営みは全ての価値を規定する存在でるが故にその「立法」という営み自体は比較不可能な無条件的価値を有さなければならす、そして理性的存在者はその「立法」という営みに尊敬の念を持つ。それ故「自律」ということによって、理性的存在者は理性的存在者の尊厳の根拠となる。
この理性的存在者ひとつで循環する構造は、神概念に依らない理性的存在者内部で完結する構造となっている。
(73)道徳の原理としてこれまで確認してきた三つの様式、「君の行為の確立が君の意志によってあたかも普遍的法則になるかのように行為せよ」「君自身の人格ならびにすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」「各人の意志こそすべてその確立を通じて普遍的に立法する意志である」というのは、同一法則を別の角度から光を当てたものに過ぎない。ある一つの方式は他の二つの方式を内包している。
これら三つの法式の間にある差異は、主観的に法則を認識する際の状況的別個性のことであり、その別個性を強調することで、個々人の行為原理として採用しやすいような形をとっている。
(74)「形式」という形に注目すれば、「普遍性」が抽出される。意志の主観的原理としては、意志が生み出す行為格律があたかも普遍的自然法則として妥当するかのような格律であることが求められる。
ここで「あたかも〜かのような」という言い回しを使っているのは、本来的な自然法則はいちいち認識せずとも勝手に実現されるが、道徳原理というのは時に達成されないことがあるため完全な自然法則とは言えない。しかしカントが望む道徳原理は普遍妥当性を有するものであり、それは自然法則と似た形をとるためこのような言い回しを選択している。
(75)「目的」という観点から見れば、目的自体である理性的存在者は、目的自体たる理性的存在者として、個別の理性的存在者が設定する行為格律が有する主観的目的、相対的な目的を自ら設定する存在であることが望まれる。当然、自ら設定する存在であるのだから他の理性的存在者を単なる手段としてのみ使用するようなことは上記の道徳原理と照らし合わせて回避されるべきだし、特に道徳原理と衝突しないような選好については主観的目的を主体的に設定する存在として行為するということである。
〜要約ここまで〜
不振。