カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章81〜88段落

 −道徳性の最高原理としての意志の自律−

(81)意志の自律という原則は、意志自身に内包されている性質と言える。だから、意志の自律の原理は「意欲が何かを選択する場合には、その選択の格律が当の意欲そのもののなかに、同時に普遍的法則として含まれているような仕方でしか選択してはならない」となる。
 この実践的規則がそれぞれの理性的存在者の意志を制約しているということは綜合的(概念の拡張が可能な方法)に認識されなければならず、この自律原理という概念を分析していっても、その制約が実際に為されているかどうかということは認識できない。
 ただし、この自律の原理が道徳哲学における唯一の原理であるということは、自律の原理が定言的命法として与えられ、更にその命法が自律ということを命令するということから、道徳の諸概念を分析するだけで十分に辿りつける。

 −道徳性のあらゆる偽の原理の厳選としての意志の他律−

(82)意志が自らの内にではなく、意志の対象としての目的に自らを規定すべき法則を措定することを(自律と相反する)他律という。この対象による意志規定は、意志が自らに法則を与えるということを不可能にし、対象が意志に法則を付与することになる。この場合、対象と意志の関係が、傾向性であろうと合理的な判断であろうと、仮言的命法としてしか成立しない。
 「私は、何々を欲するが故に何か或ることを為すべきである」というのが仮言的命法で、「私は何ものも欲しないにせよ、しかじかのことを為すべきである」と命ずるのが定言的命法である。定言的命法は、対象が意志に与えうる影響を全て排除した上で成立する。そして、その定言的命法のみが道徳的価値を有する。
 
 −他律を道徳性の根本概念と想定した場合にこの概念から生じ得るすべての原理の分類−

(83)※非常にカッコイイことを言ってますが、上手く説明できませんし、本論にも直接影響は出ない模様

(84)他律原理は二つの原理から成り、それぞれ経験的原理と合理的原理(理性的根拠)である。更に、経験的原理は幸福の原理から生じ、自然的・道徳的感情から成立している。合理的原理は理性にもとづく完全性か、独立した完全性という神概念によって成立する。すなわち、他律の原理は自然的感情にもとづく幸福の原理・道徳的感情にもとづく幸福の原理・人間理性における完全性の原理・神概念における完全性の原理という4つの原理から成立している。

(85)先の84段落における経験的原理は道徳法則の根拠にはなり得ない。しかしながらそれは、道徳的法則の普遍性は人間の個別の偶然的環境によって左右されるようなものではないから、というのが最大の理由ではない。
 そうではなく、この経験的原理(この場合は<自然的感情にもとづく幸福の原理>)が道徳性の根拠として措定しようとするものは、あらゆる道徳性を完全に転覆させ、善意志とそうでない意志との区別を無化し、功利的な判断で行為せよというように指し示すから、道徳法則の根拠とはなり得ないのである。
 対してもう一方の経験的原理、すなわち道徳的感情にもとづく幸福の原理では、一定の道徳性への敬意を払い、例え傾向性に基づく道徳的行為だったとしても、その傾向性は直接道徳性と結びついているという点で、先の自然的感情に基づく原理よりは相対的に良い。

(86)人間理性にもとづいた完全性という概念は、規定することができない。それだけで自足しているストア派が理想とする賢者のようなものを措定することは可能ではある。それでもこのような完全性を道徳根拠としようとすると、実はこの完全性によって道徳性を語ることができず、完全性は道徳性を有し、道徳性は完全性を有するというような循環論法に陥らざるを得ないことがわかる。しかし、神概念による完全性の原理よりは幾許かマシと言える。
 神概念の完全性は我々は直観することができない。それこそが神概念の高潔さを象徴しているとも言えるが、直観できないのであれば、我々が考えられうる神の意志というのは、権力欲や支配欲、それに伴う罰などというような、人間特有の性質を道徳体系の基礎としなければならないからである。

(87)85段落で説明された道徳的感情概念と人間理性にもとづく完全性のどちらかを、道徳的根拠として選択しなければならないとすれば、それは人間理性にもとづく完全性を選択する。
 それは、道徳的感情の場合と比較して、問題の所在を感性から引き離し純粋理性の問題として取り扱うからである。

(88)結局、これまで見てきたような4つの原理は、それぞれが意志の他律を道徳性の根拠と設定している。自律ではなく他律であるという点で、本来の道徳性の保護という目的を達成できないとの結果を招く。

〜要約ここまで〜

やることはたくさん