カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章76〜77段落

(76)これまでの(74)(75)段落で確認した方式の通りに確認をすると、全ての格律は普遍的法則を自らに与えるという意味の「立法」をすることによって、この現実の社会関係においても「目的の国」と調和すべきであると捉える。「目的の国」というのは実践的理念として、現実に存在はしない思弁上の産物ではあるが、我々の行動如何によって実現可能な理念である。
 道徳的判定は常に厳密に行い、定言的命法の普遍的方式を基礎に行うべきとしている。その方式が「それ自身を同時に普遍的法則たらしめ得るような格律に従って行為せよ」というものであるが、基本的にはこれまでの流れで確認してきた方式の言い換えであると言える。

(77)ここで最初の出発点であった、「無条件的に善なる意志」という概念についてまとめられる。「無条件的に善なる意志」というのは、悪にはなり得ない、普遍的妥当性を有する意志と言える。「君の格律がいついかなる場合でも同時に法則として普遍性をもち得るような格律に従って行為せよ」という原理は、この「無条件的に善なる意志」の条件に適合する意志を導く法則である。この原理こそが「定言的命法」であるとカントはしている。
 ある現実的個物は自然法則に従って連結している。この自然法則というのが自然を自然たらしめている形式であると言える。「意志」の場合も、この現実的個物と自然法則との類似が見られる。可能的行為は普遍的法則に妥当することで、道徳的な「意志」とみなされるという点がそれである。普遍的法則に妥当するということが、あらゆる可能的行為から道徳的意志を抽出する。
 つまり、絶対的な善なる意志の方式というのは「格律それ自体が普遍的自然法則として対象化できる格律に従って行為せよ」(宇都宮訳)というものである。

 ここでもカントの自然科学者然とする姿勢が伺える。カントが求める道徳法則は、自然法則の如き強度を持っていなければならない。ただ一点異なるのは、黙っていても法則に従っていることになる自然法則とは違い、カントの言う道徳法則は理性的存在者の意志によって導かれる必要があるという点である。

〜要約ここまで〜

GW明けから無気力感が半端ない。どうしたものか。