カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章78〜79段落(127頁4行目まで)

(78)理性的存在者とその他の存在者を区別する要因は、自分自身に目的を設定するという特性にあるという。このような目的が善意思の本質であるとも言う。
 この場合の目的というのは、個別の存在者が想定する一般的な用法での”目的”(「学校を卒業するために〜」「幸せになるために〜」「モテるために〜」等)とは一線を画す。ここでの目的というのは、あらゆる条件から自立した「目的」であり、消極的にのみ想定され得るという。
 この「目的」は手段としてのみでなく、同時に目的としても考えられなければならず、このような「目的」は「主体」そのものにほかならない。更にこの「主体」は絶対的善意思の主体でもある。すなわち、ここでカントは「目的」(主体)が自らを目的として規定できるような「目的」が善意思の根幹を為すのであり、条件付きの一般的目的から善意思は導き出せないとしている。
 
(79)理性的存在者が想定する格律が普遍的法則として相応しいということが、目的自体たる理性的存在者の特性であるから、目的自体としての理性的存在者は、自分自身を普遍的立法を行う主体として見なさなければならない。同時に、理性的存在者が他の単なる自然的存在者から見て優越した尊厳を持っているのは、自分のみならず他の理性的存在者も立法する主体的存在者(人格)であるという理由からであることを確認しなければならない。「目的の国」というのは、このような存在者から成る世界である。
 理性的存在者は常に普遍的な「目的の国」において立法する成員であるかのように行為する。この場合の行為格律の形式的原理は「君の格律が、あたかも同時に普遍的自然法則(すべての理性的存在者に妥当する)として役立つかのように行為せよ」となる。つまり、この「目的の国」は、「〜かのように」という類推によってのみ可能な理念と言える。自然の国は、外部法則によって支配された因果関係によって成立するが、目的の国は理性的存在者が自らに課す規則によって成立する。
 このような目的の国は理性的存在者全てが定言的命法を順守した場合に実現する。しかし、ある理性的存在者が定言的命法を順守した行為格律を措定したとしても、他の理性的存在者全てが忠実に順守することは期待できない。それは我々理性的存在者は身体性のある不完全な理性的存在者だからである。
 しかしそれでも「君は、単に可能的であるにすぎない目的の国において普遍的に立法する成員の格律に従って行為せよ」という法則は、充分な効力を持っている。第一に、理性的存在者の人間性の尊厳のみが意志規定の根源であるべきであるということ、第二に、この法則はあらゆる動機から離れたところにあり、そうであるから目的の国において理性的存在者が立法する成員に値するからだという。
 目的の国が単なる理念だけでなく、実在性を持つということになれば、それはそれで良いことかもしれないが、目的の国という理念そのものの価値が増加するとかそういうことにはならない。仮に実在性を保有していたとしても、理性的存在者の価値判定においては、「目的の国における普遍的立法」に基づいて非利己的行動をとっているかどうかということが判定基準に成り得るからである。

〜要約ここまで〜

わかったと 思うときほど わかってない