カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章55〜59段落

(55)以上のような原理は非経験的なものに由来するという。その理由は、原理の普遍性を担保するためであるというのが一つ。個別具体的な格律ではそれは普遍性は持たない。カントが構築しようと目指しているのは、理性的存在者一般に通ずる普遍的原理である。
 二つ目は、この原理で取り扱われている人間性というのは、客観的目的即ち目的自体として見做され、あらゆる主観的目的に制限を加えるという点。これを導出するのが純粋理性と言われるものだとカントは言う。

(56)実践的原理は以下のような形式を持つと言える。(31)にある「君は君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」に従って、客観的に普遍性を有し主観的には目的自体に向かうことになる。そして(49)の「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつまでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」にあるように、理性的存在者としての目的自体である主体が存在する。
 この二つの原理から考察して、第三の実践的原理が生じるという。<普遍的に立法する意志としての、それぞれの理性的存在者の意志という理念>というのがそれに当たる。以下でこの理念について詳しく述べている。

(57)意志は、単に法則に服従するのではなく、自らが自身に法則を与える立法者として法則に服従することになる。ここに個別の人間が有する行為格律と普遍的法則の対比が見られる。

(58)(56)で再掲している二つの命法は、俗世におけるあらゆる利害関係を度外視して成立している。だからその二つの命法は仮言的ではなく定言的と言える。しかし、元々本著は義務の概念について説明をしようとするもので、この段階における定言的命法も義務概念説明の過程で必要な仮の存在でしかない。この二つの命法が定言的であるということから、この二つの命法がしっかりと存在しているということは証明されない。その証明は第三章に引き継がれる。
 現時点で確かめられたのは、義務が存在するとすればその際には一切の関心が排除され、それが定言的命法と仮言的命法を区別しているのであるが、その区別は<普遍的に立法する意志としての各々の理性的存在者の意志という理念>に支えられているということだという。

(59)ともすると法則に従っているような意志、例えば「嘘をつかない」というような意志も、実は何らかの利害関係の中におかれているということは充分想定できる。「人に嫌われたくないので」など。その場合は、その利害に依存する意志は自愛原理を無効化するような別な法則を必要とすることになる。


〜要約ここまで〜


「難しい言葉がたくさんあり説明もすっ飛ばされてる感がある文章は書き手もあんまりわかってない」