カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章49〜54段落

(49)この段落では、かの有名な命法「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつまでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」を掲示している。
 この命題が成立する根拠としては、「理性的存在者」が「目的自体」として存在するというところにある。
 ここで一点留意しておきたいのは、前掲の命法中の「人間性」という言葉である。49段落においても「人間以外のすべての理性的存在者」というような言葉を用いたりして、再三に渡りこの、必ずしも人間のみを指す言葉ではない「理性的存在者」という語を用いてきたカントであるが、この「人間性」という語によって「理性的存在者」の範疇を矮小化してしまわないだろうか。
 ポイントとしては、この命法は「実践的命法」として捉えられている。「人間以外の理性的存在者」と言ったところで、実際に現世において理性的存在者として認識されているのは人間のみである。その意味では、より具体的に語りかけるということで「人間性」という語の使用は適切とも言える。

(50)以下の51段落から、(35)〜(38)で紹介した4つの命題を(49)の命法に照らした時にどのようになるかを検討している。

(51)自殺を図る人間は、自殺という行為をすることによって自らを「目的自体」として扱っているか、ということについて検討している。
 結論としては、そのように扱っていない。現状の辛い状態から逃れようとして自分の生命を絶つのは、人格というものを<辛くない状態を維持するための道具>もしくは、<幸せであるための手段>として使用していることになる。そして、そのような道具・手段として自らの人格を使用しているが故に、辛い状態に陥った時にそこから逃れようと自殺を図る。
 しかし、人間は「物件」ではない。「物件」ではないのだから、このような道具・手段としての使用は許されない。常に「目的」として使用されなければならず、勝手に処分することは許されない。

 一つここで考えたいのは、先の命法「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつまでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」を安直にヒューマニスティックな解釈をすると、この(51)の命題も認識せざるを得ないということである。
 「君自身の〜」という命法は普通、応用倫理学の場面で複数の人間関係を前提として提示されることが多い。「自己と他者」という時の「他者」に対して、このように扱いなさいという形である。しかし、ここまで読めばわかるように、カントは「理性的存在者」そのものを「目的自体」として扱えと示しているのだから、当然そこには「自己」も含まれる。となると、「君自身の〜」という命法を信奉する限りにおいて、このように自殺を図る人間は義務不履行をしたと見做さなければならない。もしそうでないとするなら、新たなロジックの組み立てが必要となるのではないか。
 当然、この命法を厳密に使用し、自殺は愚か安楽死(自己の手段化)や臓器移植(他者の手段化)に完全に反対する立場も可能である。

(52)二つ目に考察しているのは、他人に偽りの約束をしようとしている者は、他人をどのように扱っているかということである。
 この場合も他人を手段として用いていることになる。つまり、「偽りの約束」というものは相手は同意しないし、その他者が進んで自らに「偽りの約束」をして欲しいと思うことは有り得ない。そして、「偽りの約束」をしようとしている側の人間も当然、この他者同様「偽りの約束」をされることには同意しないし、「偽りの約束」をして欲しいとも思わないであろう。にも関わらず「偽りの約束」を締結しようとするということは、その他人を自分と同じような推論を辿るであろう「理性的存在者」としては認識しておらず、他人の人格を「目的自体」として扱っていないことを証明している。

 ここで注が入る。ここまで読むと、ある意味常識的な解釈では「人にされたくないことは自分もするな」ということか?とも読めるだろう。しかしカントはこの注でそのような解釈を徹底的に拒絶している。
 「君に為されるのを欲しないことを他人に為すな」という黄金律(ローマ皇帝アレクサンデルの愛用句)を「取るに足らぬ言辞」であり、「規準或いは原理としてここに適用できるなどと考えてはならない」としている。このキリスト教的黄金律は、およそ自愛の原理に基づいたものであり、そこには「自分が為されたいから相手に為す」という仮言的命法が存在し、その中には手段化された「他者」が見え隠れしている。
 カントは皮肉を込めて「他人に対して親切を尽くさなくても済むものなら、他人が自分に対して親切でなくても結構である、という考え方を喜んで承認するような人はたくさんいる」、「犯罪者は、彼を処罰しようとする裁判官に対し、かかる言葉(キリスト教的黄金律)を楯にとって、自分の無罪を証明するかも知れない」と言う。自分がされたいことを相手にする、自分がされたくないことを相手にしない、という今日では常識的と言える道徳法則を普遍化したときに、この種の問題が生じるとカントは言う。
 であるから、カントは決してこのようなキリスト教的黄金律から「偽りの約束」の締結を否定したのではなく、他人の人格を「目的自体」として扱っていないが故に「偽りの約束」を否定したのである。

(53)続いては「自分に対する不完全義務」、「自らの素質を伸ばさない」という行為について検討している。
 カントは「人間性には、現在よりもっと完全なものになろうとする素質がある」とし、この素質に逆らった行為(「しない」という行為)をすることは、「目的自体」として扱われるべき人間性と対立矛盾はしないが一致はしていないのだから、不完全義務を履行していないと言えるとしている。

(54)最後に検討するのは「他人に対する不完全義務」、「他人からの援助を受けないし、他人に援助もしない」という行為についてである。
 これも他人の幸福を故意に脅かすようなことさえしなければ、他人の人間性を侵害していることにはならない。しかし、他人の幸福を促進するよう働きかけないということは、人間性のもつ素質とはやはり一致しない。(53段落)であるから、この場合も不完全義務が果たされていないと言える。

〜要約ここまで〜


ふと書いていると、53・54段落の尻すぼみ感が著しい。これは恐らく「目的概念」の不完全さが理由と思われ、これがすっきりと納得いくためには「判断力批判」(か「実践理性批判」だったか…)を待たなければならないというような話があったような気がしないでもない。