カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章62〜67段落

(62)ここまで確認したような理性的存在者であるならば、それぞれの理性的存在者は自らを<自らの意志の格律によって普遍的な道徳原理を構築する立法者>として見做さざるを得ない。このような立法者という観点から、自らの行為を判定するべきである。
 このような理性的存在者の概念を突き詰めていくと、<目的の国>という概念に至るとカントは言う。

(63)ここでいう「国」というのは、それぞれ相異なる理性的存在者が、ある共通の法則によって体系化され結合された存在だとする。
 ここでいう「法則」というのは、もちろん普遍妥当性に従って目的を規定するわけであるから、理性的存在者がそれぞれ有する差異(性質・嗜好性など)から生じる普遍妥当性を持たない行為格律、その格律の目的を度外視すると、一切の目的を体系的に結合した全体(国)が考えられるとカントは言う。ここでいう「一切の目的」というのは、目的自体たる理性的存在者と、その理性的存在者のそれぞれの不可避的な境遇の差異から生じる普遍妥当性に包摂され得る個別的目的(特殊的目的)を指している。

(64)理性的存在者は、自らを含む全ての理性的存在者を単なる手段としてだけでなく、同時に目的自体としても扱うべきであるという法則に服従している。この客観的法則による理性的存在者の体系的統合がここに認められ、理性的存在者間に目的と手段という関係性を設定していると言い、この体系的統合を指して一つの「国」と見なしている。

(65)この国で理性的存在者は、まず国家の成員である。成員であるが、理性的存在者であるのだからやはり普遍的な立法を行う。そして立法を行うと同時に、自らが与えた法則に服従している格好になる。
 もう一つの理性的存在者のこの国での在り方は、元首である。元首としての理性的存在者は立法する者であり、他者のいかなる意志にも服従はしない。

 この段落を、ルソーの社会契約に沿った成員−元首の関係性と見なすこともできるが、判断が難しい。単純に読むならば、「ある一人の理性的存在者は普遍妥当性を有する法則を、自らの意志で生み出し、かつその自ら生み出した法則に服従する。」と取れる。しかし、そう単純に読めるわけでもなさそうだというのが、この65段落以後の「成員−元首」というフレームのカントの用い方から想像できる。
 65段落(だけでなく以前からそうだったのかもしれないが)に登場する「理性的存在者」は二義的な意味を有している可能性がある。つまり、神のような身体性の無い「完全なる理性的存在者」と我々多くの人間のような「不完全な理性的存在者」の二つであり、それぞれ前者を指して「元首」とし、後者を指して「成員」としているのではないか。
 そして、「成員」たる我々は一見「元首」に服従しているようであるが、前述の「成員」と「元首」の在り方であるならば、厳密には「元首」は「成員」の存在維持のために必要ではない。なぜなら自らの意志で普遍的立法を行い、それに服従するのが「成員」であるからだ。となると、この部分では「婉曲的な神概念の不必要性の示唆」ともとれるが、とりあえず以後の段落では、これらのことを念頭に入れておきたい。

(66)<目的の国>の元首は、彼の主観的な行為格律によるだけでは、元首の地位を保持できないとしている。主観的行為格律によって元首の地位を保持するためには、その行為格律を達成するための能力を有し、この能力を制限するものも無く、完全に独立している存在者ならば可能だとしている。
 ただ一つこの条件に適合する存在者が考えられ、それが「神」ではないのか、というのが私見である。

(67)道徳性の本義というのは、各々の理性的存在者の意志から生じる普遍的立法と行為の関係性の中に存するという。
 ある理性的存在者が持っている主観的な行為格律が、普遍的に立法する者としての理性的存在者が有する客観的原理と一致していないとき、この客観的原理に従わざるを得ないと感じさせる理由が、「義務」であるという。そしてこの義務は、<目的の国>の「元首」には適用されないが、「成員」には例外なく課せられるという。
 行為と道徳法則のズレが生じている時に発生するのが「義務」である。「元首」たる理性的存在者は、「他者のいかなる意志にも服従することがない」のだから理性的存在者の意志から発生した客観的原理、即ち「義務」は「元首」に適用されることはない。「元首」は「元首」だからいかなる意志にも服従しないのではなく、「義務」概念が適合しない、即ち「行為と道徳法則のズレ」が生じないような完全なる理性的存在者(神)だからこそ、他者の意志には服従しない、とカントは定義しているのではないだろうか。


〜要約ここまで〜

うーむ。