カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章68〜71段落

(68)この段落ではこれまでの議論を繰り返し確認している。
 客観的原理に従う、すなわち「義務」に基づいて行為するということは、何らかの感情に由来するものではなく、理性的存在者相互が関連しあうそのことに基づくものである。というのも、理性的存在者は常に自らを立法する主体として見做し、その主体性を拡張して捉えることで他の理性的存在者も同種の存在であることを認識し、それによって他の理性的存在者を目的自体として捉えることが可能になるのである。
 
(69)「目的の国」では、あらゆるものは「価格」か「尊厳」を持つ。
 ここでいう「価格」というのは、代替可能性を保持しているということであり、「尊厳」は代替可能性が無く「価格」を超越し、等価物の無いようなものを指す。
 ここに、カント倫理学ヒューマニズム的側面が見て取れ、生命倫理などの分野においてカント倫理学を援用する一つの柱ともなっている。

(70)この段落では69段落で提示した二つの付与物を更に三つに分けて考察している。
 欲望や嗜好というのは人間に共通するものであり、これらは「市場価格」を持つとされる。69段落での定義を確認すれば、欲望や嗜好というのは代替可能であるということだ。また、「美」という目的性の無い対象と感情の一致は「感情価」を持つとされている。
 カントにおける「美」は、心に発生する「美」と感ずる想いそのものに価値があると見做し、そこに何らかの欲望や目的(「美しい、だから手に入れたい」「美しい、もっと見たい」)は介在しない。そのような無目的な「美」という価値を指し示す指標として「感情価」というのを設定したと言える。
 そして、理性的存在者が目的自体としてあり得るための唯一絶対の条件というのは、以上二つのような相対的価値ではなく、「内的価値」すなわち「尊厳」である。
 69段落と比較すると、「価格」について二つの視点を用意している。

(71)「道徳性」というのが、目的の国の成員たる理性的存在者としての人間だけが、目的自体として尊厳を保持する。何らかの仕事を熟知しているとか仕事に真面目に取り組むというのは、カントは「市場価格」を持つものであり「内的価値」にはならないとしている。
 ここには、「仕事」のための「熟知」「真面目さ」というように、目的性が存することが「市場価格」と位置づけられることの根拠であるように思われる。対して約束を守る「誠実さ」というのは、そこに何ら目的性は無い。
 目的性が無い、というと現実問題として適合しない気もするが、ここで言わんとしているのは、理性的存在者の意志というのは直接かかる道徳的行為と接続していなければならないのであり、ここに何らかの愛好心(「道徳的によいとされる行為をすると気分が良くなる」)というのは介在し得ない。この愛好心が介在している時点で、既に「義務」という半ば強制性を持った概念とは両立し得ないというのがその理由である。


〜要約ここまで〜


超同意。