カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章72〜75段落

(72)このように「道徳的」と言える条件を厳しく設定できるのはなんのためであるか。
 理性的存在者は身体性に由来する自然法則の制約、すなわち身体的欲求や傾向性からは自由であり、理性的存在者自身が自らに課す普遍的法則に服従することになる。あらゆる理性的存在者は、その普遍的法則が規定する価値しか持ち得ない。
 自らに普遍的法則を課す、すなわち「立法」という営みは全ての価値を規定する存在でるが故にその「立法」という営み自体は比較不可能な無条件的価値を有さなければならす、そして理性的存在者はその「立法」という営みに尊敬の念を持つ。それ故「自律」ということによって、理性的存在者は理性的存在者の尊厳の根拠となる。
 この理性的存在者ひとつで循環する構造は、神概念に依らない理性的存在者内部で完結する構造となっている。

(73)道徳の原理としてこれまで確認してきた三つの様式、「君の行為の確立が君の意志によってあたかも普遍的法則になるかのように行為せよ」「君自身の人格ならびにすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」「各人の意志こそすべてその確立を通じて普遍的に立法する意志である」というのは、同一法則を別の角度から光を当てたものに過ぎない。ある一つの方式は他の二つの方式を内包している。
 これら三つの法式の間にある差異は、主観的に法則を認識する際の状況的別個性のことであり、その別個性を強調することで、個々人の行為原理として採用しやすいような形をとっている。

(74)「形式」という形に注目すれば、「普遍性」が抽出される。意志の主観的原理としては、意志が生み出す行為格律があたかも普遍的自然法則として妥当するかのような格律であることが求められる。

 ここで「あたかも〜かのような」という言い回しを使っているのは、本来的な自然法則はいちいち認識せずとも勝手に実現されるが、道徳原理というのは時に達成されないことがあるため完全な自然法則とは言えない。しかしカントが望む道徳原理は普遍妥当性を有するものであり、それは自然法則と似た形をとるためこのような言い回しを選択している。

(75)「目的」という観点から見れば、目的自体である理性的存在者は、目的自体たる理性的存在者として、個別の理性的存在者が設定する行為格律が有する主観的目的、相対的な目的を自ら設定する存在であることが望まれる。当然、自ら設定する存在であるのだから他の理性的存在者を単なる手段としてのみ使用するようなことは上記の道徳原理と照らし合わせて回避されるべきだし、特に道徳原理と衝突しないような選好については主観的目的を主体的に設定する存在として行為するということである。


〜要約ここまで〜


不振。