カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章45〜48段落

(45)ここまでの議論をまとめると、全ての理性的存在者が自己の格律を普遍的法則となるように欲し得るものとして行為を選択することは、必然的法則であるか否かということが問われている。主観的な行為格律が法則と結びつくという法則は成立しているかということだ。
 我々が一般的に持つ趣向や感情・欲求がどうして成立するか、またそれらの感情・欲求によってどうやって行為格律を導くのかということは問題としない。人間本性として「こうである」という状態から、道徳法則「こうすべき」は導けないというのがその理由となる。ここでは「経験的心理学」というのを、そのような人間本性の分析に従事する学問として挙げている。
 カントは「理性がそれ自身だけで行為を規定する」ということを、ここでは仮定ではあるが是認している。つまり、趣向(本文では”傾向性”と言われているが分かりにくいので趣向と呼ぶ)や感情、欲求といった人間本性と道徳法則は相容れないということである。

(46)ここで「目的」と「手段」という概念を説明している。ある行為をすべく意志が持たれる時、その意志の発生根拠として「目的」が寄り添っていなければならない。
 このような「目的」によって生じさせられる意志と、定言的命法によって生じる行為格律には差異がある。この場合の「目的」というのはある理性的存在者が任意に設定したものである。この「目的」の価値は、それぞれの行為者の主観(趣向・欲求)によって決定される。ということは、このような「目的」から発生した意志による行為原理は普遍的法則にはなり得ず、全ては仮言的命法に留まる。

(47)ここで話は飛躍する。
ある存在物そのものが(46)のような相対的価値でなく絶対的価値をもち、同時に「目的」自体として行為原理を規定できるとすれば、このような存在物にのみ定言的命法を成立させる根拠があるとカントは仮定する。

(48)ここでカントは、人間だけでなくあらゆる理性的存在者は「目的」そのものとして存在し、他の理性的存在者の意志によって使用されるような「手段」としてではなく、「目的」として見なされねばならないと宣言する。
 ここで注意せねばならないのは、とりわけ政治哲学や生命倫理の分野において、カントのこのような文言を用い「人間の尊さ」「生命の尊厳」を肯定することがあるが、ここまで見てきたようにこれはカントの思想を極めて矮小化した引用であると言える。カントがここで「手段」として扱ってはならないと言っているのは「理性的存在者」であり、これは人間も含めるが必ずしも人間のみを指すものではないということだ。
 つまり、ここでは「理性的存在者」の線引きが要求されている。カントの思想を推し進めれば「理性的存在者」であれば必ずこう考える、という行為格律が存在することは明白である。ということは、その行為格律に適合しない人間、例えば(35)〜(38)で見たようなもの(自殺をしてはならない等)を受け止められなければ、それは「理性的存在者」として認められない可能性がある。このようなカントのある種の優生思想的側面を無視して、「人間の尊さ」といったヒューマニスティックの理論的補強として用いるのは問題があると感じる。 

 話を戻す。存在物には類型があり、その一つが「手段」としての相対的価値を持つに留まっている「物件」である。何でも良い。今自分の視界にあるものを順に挙げていけば、PC・目覚まし時計・鍵・ペン・煙草・鏡・テレビ・洗濯バサミ・眼鏡・財布・鞄… これらは全て「手段」としての相対的価値を持つに過ぎない「物件」である。調べ物をしたければPCを「手段」として用いるし、髪の毛を乾かすなら鏡を「手段」として用いる。これらの「物件」はその時その時の相対的な主観的目的に応じて使い分けられる。決して絶対的価値が「物件」にあるわけではない。
 対して、「理性的存在者」は「人格」と称される。この「理性的存在者」というのはその存在者を単なる「手段」としてではなく「目的」として扱い他の理性的存在者の主観的利用を止める。この場合の「目的」は前段落にある「相対的な主観的目的」とは異なり、「客観的目的」と称せられる。「主観的目的」は行為の結果として価値を持ちうる。価値を持つということは、そこで交換可能性が生じるということになる。例えば貨幣など。
 しかし、この「客観的目的」はその存在自体を「目的」とし、他の「目的」によっては交換できないことをその性質としている。この「目的」は「手段」として”のみ”用いられることはない。
 そしてこのような絶対的価値を有する存在物が無く、あらゆる価値は全て相対的・偶然的とするならば、最高の実践的原理すなわち定言的命法なるものは存在し得ないことになる。カントはここでは、反語的に定言的命法の存在を認めている。


とりあえず以上。