カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章42〜44段落

(42)このような定言命法の導出を、「人間本性」から行ってはならないとカントは言う。
そして、この原理は「すべての理性的存在者」に妥当すべきであり、だからこそこの原理が表す「義務」は全ての人間に対しても法則として措定されなければならない。

 つまりここでは、本書でカントが繰り返し述べるように「理性的存在者」と「人間」の明らかな分別を強調している。

 「人間」が導出できるのは、せいぜい「主観的原理」にとどまり、これは「性向や傾向性をもったままで、それに従って行為しても差し支えないような原理」であり、言い換えるなら「仮言的命法」のような原理を指す。
 「客観的原理」は「人間的存在としての自然的な仕組がいかに反抗しようとも、それを無視して我々に行為を指図するような原理」とし、「定言命法」にあたるだろう。
 我々が「主観的原理」を用いて「客観的原理」に対し抵抗を示せば示すほど、「客観的原理」がもたらす「義務」を強く認識していることを証明することになる。カントは「理性存在者」一般に通用する普遍的道徳原理の構築を目指したが、それは決して「人間」中心の原理ではない。
「理性的存在者」と聞いたときに、普通我々はそれに「人間」を代入する。しかし、それは半分当たりで半分外れと言える。それは、カントがこのように「理性的存在者」と「人間」の区別を行っているためで、我々が「理性的存在者」を「人間」と置き換えるのは経験的・偶然的な事柄にすぎず、カントが構築しようとしている道徳原理は必ずしも人間本性に重きを置いた道徳原理ではないからである。

(43)この段落は、以上のようなカントの立場を補強するレトリックのように思える。以下、重要と思われる箇所を引用する。

「すなわちこれらの原則は、人間の傾向性からは何ものをも期待せず、いっさいを法則の主権と法則に致すべき尊敬とに期待する、そしてもしこれに反する場合には、人間に自己軽蔑と内心の嫌悪という判決を言い渡すのである。」

一般的な「厳格」というような言葉では足りない・適切とは言えない並々ならぬ決意を感じる。


(44)この段落も(42)の補強と言える。人間の経験的事項は、道徳原理にとってはノイズでしかないとカントは言う。「道徳」の絶対的な価値というのは、「行為の原理が、すべて経験の提供する偶然的根拠にもとづくところのさまざまな影響からことごとく離脱しているところにある」としている。
 我々は時に、自らが<道徳的>だと感ずることを道徳的だと認識する。しかし、<道徳的>というのは経験から導き出されたものであり「主観的原理」に過ぎないのだから、道徳原理になるようなものではない。


〜要約ここまで〜


カントの言う道徳原理は、決して人間中心に捉えられたものではないと言える。
一般に「道徳的だ」と言う時、そこに人は「慈しみ」を感じたりするがそのような人間本性に由来するものは決して道徳原理だとはしていない。最終的には理性からの命令がすなわち「道徳」だとしている。

このように理性と人間の明らかな分離を行っているカント。コンピュータ科学の分野では「理性」の生成が可能かと問われることもあるが、「理性」が決して人間の専売特許では無いとしている以上、少なくとも形而上学レベルの議論では身体に由来する感性から離れた「理性」の生成も不可能とは言えない。