カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第二章36〜41段落

(36)続いて<他人に対する完全義務>の例示をしている。"「私はいま本当に金に困っている、それだから金を借りようと思う、またいつになっても返す当てのないことを承知していながら、(偽って)返済を約束するつもりだ。」”という行為格律を挙げ、この行為格律が普遍妥当性を有しているかを判定する。
 もし、この行為格律が普遍化した場合、皆が返すあてのない約束を取り付けるため、「約束」という概念が自己矛盾に陥ることになる。だからこの行為格律が普遍的法則になることはない、とカントは言う。

(37)次は<自分に対する不完全義務>の例示。素質や才能、能力のある人間が、それを発達させようと努力せずにだらけているとする。彼がこのだらけた行為をしていても、世界全体の秩序が乱れるようなことにはならない。
 しかし、以上のようなことを了解していたとしても、だからといって”「自然が自分に与えてくれた素質の開発をなげやりにする」”という行為格律を普遍的法則になることを彼は欲しないとカントは言う。つまり、彼とて能力の全てが未発達で良いと考えるわけではないし、これらの能力というのはある可能的な意図を達成させるために彼に与えられているからである。

(38)最後に<他人に対する不完全義務>の例示として、「自分が富を有している際に、困窮にあえぐ他人を見たときに助ける力はあるが、自分も他人からの援助を求める気はないし、自分も援助する気はない」というような行為格律について判断している。ここでも、この行為格律が普遍的法則になったとしても、強者が生き残り続けるのみで人類としては何ら困るところはないとしている。
 しかしそれでも、この行為格律を普遍的法則として一般に妥当すると「欲する」ことはないという。このような行為格律を採用していたとしても、彼自身がそのような援助を欲する場合があるから、というのがその根拠となる。

(39)道徳判定の基準というのは、自分の行為格律が普遍的法則になることを欲し得るか否かである。
 行為格律の中には、”「その格律を矛盾なしにはとうてい普遍的法則として考えられ得ないようなもの」”(完全義務-36・37)と、行為格律そのものに矛盾は生じないが”「行為の格律が、自然法則の帯びるような普遍性にまで高められるのを欲することは不可能」”なもの(不完全義務-38・39)とがある。この二つの判定を支える根拠として、定言的命法があるとしている。

(40)しかし、我々が義務違反を犯すとき、義務違反を犯した際に用いた行為格律(例:"「私はいま本当に金に困っている、それだから金を借りようと思う、またいつになっても返す当てのないことを承知していながら、(偽って)返済を約束するつもりだ。」”)が普遍的法則になるべきとは思わない。その格律と正反対の格律(どのような場合であっても、偽りの約束をするべきでない)を採用し、自らの利得となるように、その格律から自分だけを例外化することを望む。
 つまり、ひとつの原理に対し、それを客観的には普遍的法則として必然性を認めた上で、主観的には普遍妥当性を廃し、例外を認めようと働くのである。このような状況下では、客観的原理と主観的原理が中途半端に折り合い普遍的法則にはなり得ず、一般妥当性があるのみとなる。
 このままで放置しておくわけにはいかないものの、このように自己を例外化しようとする働きの内に、定言的命法の妥当性を承認していることが認められる。自己を例外化するというのは、普遍的に妥当するであろう原理を暗に認めて、その上でその原理から自分のみを例外とする働きだからである。

(41)これまで((29)〜)のところで明らかにした点は二点。まず、義務が空疎な概念などではなく立法などにおいても重要な意義を持つような概念であるとすれば、このような義務は定言的命法の形でのみ表現されるということ。もう一点は、定言的命法の内容を明示し、あらゆるケースに対応できるよう明確に説明を行った、ということである。
 しかし、「定言的命法はどのようなものか」という問題には答えたものの、「定言的命法は実際に存在するか」というア・プリオリな問題にはまだ答えていない。


〜要約ここまで〜

(37)において、「自分に対する不完全義務」について記述しているが、説得力に欠くように思えた。一読したときは<彼が定め得る”「自然が自分に与えてくれた素質の開発をなげやりにする」”という行為格律の達成のためにこそ素質の開発が必要になる>から、開発を怠ると<矛盾が生じるため、この行為格律は普遍的法則になりえない。>という意味だと思った。
 しかしながら、これは「不完全義務」の例示であり、不完全義務とは(39)にもあるように「行為格律そのものに矛盾は生じないが”「行為の格律が、自然法則の帯びるような普遍性にまで高められるのを欲することは不可能」”なもの」という意味だから、私の解釈では行為格律そのものに矛盾が生じることになる。しかし、(37)の少なくとも字面上の記述では、行為格律が破綻をきたす、という解釈以上にすっきりいく解釈は無いように思えた。

 また、ここで展開されてる種々の義務の例示全体に言えることであるが、とりわけ(36)に顕著な問題もある。
 カントは「普遍妥当性」を有する行為格律こそ「正しい」として、これらの普遍妥当性検査を行っている。しかし、「普遍妥当性」すなわち「普遍的自然法則になる」という事態はどのようなものなのか。ここでカントは「約束」という概念を持ち出し、「困ったときには約束守らない」という行為格律が「普遍的自然法則」(みんながそのように行為する)になってしまった場合、「約束」という概念そのものが自己矛盾に陥るから正しくない、と言っている。多くの教科書ではこのような記述をされているし、自分もそこまで不思議に思っていなかった。
 しかし検討をしてみると、この行為格律はあくまで「困ったときには」という条件付き、仮言的な格律なのである。ということは仮にこの行為格律が普遍化した世界においてでも前提としての「約束」概念は残っていることになる。その世界で「約束」という概念は何を意味するのか。
 現代でも、個人ベースですら金銭の貸し借りにおいては、相手が返す見込みがあるか簡単ではあるが検討をする。商業ベースならば必然的である。となれば、「約束」という概念そのものに「破棄可能性」が内包されているのではないか、とも考えられる。
 (このブログでまとめる以前の項目において)カントは度々「普通の人間理性」と「理性的存在者」という語を使い分け、「理性的存在者一般に妥当する法則」の発見を目的としてきた。つまり、この「理性的存在者」というのは一般に言われるような人間の道具としての「理性」を意味するのではなく、人間存在を超えたとこに存する「理性」を指していたはずだった。人間が絶滅しようとも、自然法則が変化しないように、道徳法則は残るのである。しかし、カント自身が設定したこのような厳格な前提のため、「約束」に関する問いの成立は怪しくなっている。
 上記の意味での理性的存在者一般に妥当する法則の構築を目指すのであれば、仮言的行為格律に基づき、また既製の「約束」概念に寄り添う形での反証では説得力に乏しいと思う。





 というようなことはヘーゲルが言ってるらしい。よく知らんけど。

 そしてここまで書いてきて、イケイケドンドンと思っていたが不安になってきた。やはり(36)はおかしいことないのではないか。やっぱ矛盾するんじゃないかと思いはじめてきた。苦情は受け付けます。