カント「道徳形而上学原論」(岩波文庫)第三章3〜12段落

(3)意志の自由が前提されると、自由の概念を分析するだけで、そこから道徳性原理が発見できる。
 しかし、この分析的手法を用いて発見された道徳性原理 ー「絶対に善なる意志は、その意志の格律が普遍的法則と見なされるところの自分自身を常にみずからのうちに含んでいるような意志である」ー は、綜合的命題である。
 
 説明を加える。分析的手法とは、「条件付きのものから始めて原理へ向かって進」*1むことであり、綜合的手法はそれとは逆で、「原理から始めて帰結へ、或いは単純なものから始めて合成或いは複合されたものへ向かう」*2ことである。
 また、分析的命題(判断)というのは、「述語Bが、主語Aのうちにすでに(隠されて)含まれているものとして主語Aに属する」*3ものであり、綜合的命題(判断)は「述語Bは主語Aと連結してはいるが、しかしまったくAの概念のそとにある」*4ということを指す。
 だから、自由の概念を分析的手法を用いて分析を推し進めた結果発見された道徳性原理が、綜合的命題であるということ自体は、なんら矛盾することではない。また、「端的に善なる意志」という概念分析的手法にかけたところで、どのような特性も発見され得ない。
 
 綜合的命題は、ある二つの認識を、その二つを内包した第三の認識と結びつけることで可能となる。この道徳性原理においては、その第三の認識の役割を果たすのは「自由」という概念である。ただ、いまここでその「自由」概念について詳細な記述をすることはできない。以後の準備が必要だからだ。


 <自由はすべての理性的存在者の意志の特性として前提されねばならない>


(4)道徳性が我々にとって法則という形で現れ出るのは、我々が理性的存在者であるということに起因する。だから、道徳性は全ての理性的存在者に共有されなければならない。
 そして、道徳性は自由という概念から導かれるものだとすると、自由そのものも全ての理性的存在者の意志の特性だと言える。ただし、「自由」は経験的に認識できるようなものでなく、ア・プリオリにその特性を説明しなければならない。

 その上で言うならば、意志を有する理性的存在者は、同時に自由の理念も必然的に保有していなければならない。その理念を持った上で行動する存在者であれば、自らを原因性として律することが可能であろう。
 「自由」は、その存在の証明はできない。つまり、経験的な観点から悟性を用いると、アンチノミーを引き起こす。しかしながら、理念すなわち対象として取り扱えないものとしての「自由」は十分に想定可能である。
 理論的見地からみれば、「あたかも自由であるかのように」しか振る舞えない。自動販売機を前にジュースを買う。私は自由に選んだかのようであるが、そもそも自動販売機には限られた数の商品しかなく、その時の渇き具合によって選好は規定され得るし、商品の配置によって選択に影響が出ていることはあり得る。そうであれば、自動販売機でジュースを買うという行為は自由であるとは言い難く、「あたかも」でしかない。
 しかし、実践的見地からみたときには、私はその時、確かに誰からの指図も受けず自らの意志で自動販売機に並んでいるものから好きなようにジュースを選んだ。これはまさしく「自由」そのものであると言える。
 
 理性は、その自らを行為原理の創始者として見なさなければ、道徳性原理の根幹を為す「自律」が成立しない。つまり、「理性的存在者の意志は、自由の理念のもとでのみ、彼自身の意志であり得る」*5
 
 
 <道徳性の諸理念に付帯する関心について>


(5)道徳性原理の基礎を自由の理念に置いた。しかし、これは我々が自らを理性を持ち、行為の原因性になりうる(=意志を持つ)存在者であるという風に見なすならば、という条件付きで認められるものであり、人間本性の中に確実に「自由」という概念が実在するということの証明には至っていない。

(6)この自由という理念を前提としたので、行為を規定する法則性も見出すことができる。*6
 しかし、何故我々はこの普遍的法則という原理に理性的存在者一般として服従しなければならないのか。この服従が、単なる関心ではないということは、人間の関心は定言的命法を付与しないということからも明らかである。それでも、純粋な実践的関心は持たざるをえない。
 実践的関心の存在は、その原理との距離感があることを示す。もし、理性的存在者において道徳性原理が完全に内面化されているとすれば、道徳性原理において示される「べし」は存在せず、全て「欲する」となる。
 しかし、我々は感性を有するために、理性単体での行為規定というのが困難な存在者である。だから「べし」は存在するし、我々存在者と原理との間の距離感を実践的関心は察知している。

(7)ところが我々は、自由という理念によって道徳的法則を前提できたというだけであり、法則が実在するのかとか客観的必然性をもっているのかということについては、何ら証明できていない。
 ・格律の普遍妥当性という原則は、なぜ我々の行為を制約する条件たるのか
 ・道徳的法則に従った行為の価値の根拠は何か
というような質問がされれば、それに満足に答えられることはない。

(8)ある幸福に値するような人格的性質は、その性質によってある状態(幸福)に向かうことが可能的だというだけで、我々の関心の対象に成り得る。例えば「カッコイイ」とか「優しい」とか。
 しかし、これらの判断は我々が道徳的法則の重要性を既に前提とした上での判断である。その道徳的法則の対象者である目的自体たる我々の人格に、その関心の対象と成り得るような個別的性質を超越した価値を見出すには、この種の経験的関心を拭い去る必要がある。
 そして、そのような関心を捨てて行為した上で我々は自らを自由であると認識する。それであっても、やはり我々はある種の法則に服従していると見なされる。
 この「道徳的法則の拘束力」の根拠は、これまでの説明では提供できない。

(9)我々が道徳的法則の中で目的自体として法則に服従していると考えるには、我々が作用原因の秩序の中で原因性を有する自由な存在であるということを想定する必要がある。
 しかしながら、そもそも理性的存在者である我々には意志の自由が与えられており、その後に道徳的法則に服従するとも考えられる。これは相反するのではなく、循環論法の形式をとっている。
 「意志の自由」と「意志が自ら自分自身に道徳的法則を与える」というのは、いずれも自律であり、外延を共にする概念である。

(10)ここで、この循環論法から抜け出すための方策について考察する。

(11)我々に対象を認識させるのは、対象が感官に働きかけるからであるが、対象それ自体がどのようなものかというのは認識し得ない。物自体は認識できない。我々が知るのは、物自体がどうやって我々を触発するかという方法だけである。
 感性によって認識する感性界は個別的な存在者の特性によって様々な表象となるが、感性界の根底にある悟性界は皆共通・不変である。感性を異にしても、そこから認識へと至るために悟性を用いる際、その悟性に普遍性が無ければ我々は「認識」を認識できない。

 これは、人間・自分自身に対しても同様に適用され、自らの事柄であっても彼が認識できるのは現象として現れる彼であり、物自体としての「彼」ではない。人間はその認識を超越しようと、現象の合成である自らではなく、その根底にある「私」を想定したがる。

(12)11段落で認めたことは、我々の普通の悟性・常識を用いれば辿りつける結論である。しかし、常識は感官の対象の背後にある見えないものを、本来は人間の認識の外にあるものなのに、感性の対象として扱おうとするため、11段落のような結論に至らない。
 「そしてこういうことをするから、常識は少しも賢くならないのである。」


〜要約ここまで〜

うおおおおおおあああああああああ

*1:p21 訳註

*2:p21 訳註

*3:p77 訳註

*4:p77 訳註

*5:p145

*6:第三章2段落要約文参照