本を読むのが好きじゃないです


僕、本を読むのが好きじゃないんですよ。

一応、ブクログなんか登録しちゃったりして、カッコつけてますけども、全然好きじゃない。
集中できない。他のこと考えたりする。頭に文字の意味するとこが入ってこない。向いてないんでしょうかね。

わからない言葉も多いからネットで調べたり、文中のことから脳内で様々な妄想が展開されて気づいたら数分経ってるとか。そんなんばっかです。だから読むのも遅い。それで好きになれない。

ただ本を読みたいという欲はある。書店に行ってタイトルや目次を見た時のワクワク感は持っている。だが本を読むのは好きではない。

そこに書かれている内容が理解できて、頭の中で運用して話ができたら楽しいだろうなあという欲はあるんです。というかそれしかない。

だから小説も読まない。本当はそれって違うのかもしれませんけど、小説など文学作品からその背景にある思想を読み取るのってできないんですよ。直接書いてくれないと。まあとにかく小説も読めない、って言ったほうがいいかもしれない。あらゆる本のジャンルを合わせても、「ただひたすらに字を追うのが楽しい」と思えるのは「ハルヒシリーズ」だけです。ちょっと恥ずかしい。


だから積ん読はたまる一方。こりゃ参った。今、何十冊とあるでしょう。きっともっと多い人はいるはずだ。
古本屋とか行ったら「あ、これ読みたかったんだよな。次来たときあるかわからないし。」とか言って買うんですよ。そういうのって古典作品が多くて、そう言い続けて岩波文庫の青がどれだけ溜まったことか。



で、そんな読書を続けて、はたと気づいたんです。


僕は書中の否定ができない。


とある人は著名な古典作品を評して「こいつアホだろwww」とか言えちゃうんですけども、僕にはそれができない。
例えば哲学史の本があるとしましょう。哲学史は時系列に沿って古代ギリシャから現代思想までを扱うわけです。そこでは当然、過去の思想の否定が繰り返されていくわけですが、次々と出てくる思想にいちいち頷いてしまう。先読みの否定なんてできやしない。「いやーいいこと言うなー」と思った5ページ後にはおんなじことを別な対象に向けているというような感じ。

これは劇場のイドラ、といったところですか。権威主義的なんですね。知ってますけど。

ただ今読んでる「弁証法はどういう科学か」という本は結構批判的に読んでます。まだ途中ですけど、著者の哲学・宗教の観点には大変疑問が出てきて、なんならちょっとキレ気味に読んでます。いつもこういう読書ができれば賢くなるんでしょう。

いや、賢くなるのではなく、賢いからできるのかもしれません。そうなると僕には一生無理ですね。泣きたい。

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書)