「どうして働かなくてはならないのか」という質問に、どう答えて欲しかったのか

石渡嶺司さんというライターの方がおりまして、私も先日、北海道大学で行われた講演会に参加させていただきました。

「就活のバカヤロー」という本がありまして、かねてから「就活」というシステムそのものに懐疑的だった私はこの本を読んでえらく感動したのを覚えています。(ブクログ:レビュー

その石渡さんが自身のブログでこのようなことを書かれておりました。

「ライター石渡嶺司のブログ」より


 ある学生からある席で(面倒なんで全部「ある」にしておけば文句ないだろ)

「なぜ働かなければならないのか?」

 と聞かれました。彼が言うには、

「お金がないから働かなければならないのはわかる。しかし、お金があれば働かなくてもいいのではないか」

 この質問に対して、アルコールが回っていることを抜きにしても、まあきちんと答えられない、某・大学ジャーナリストがいて。まあ、私のことなんですが(笑)。
 いや、笑い事じゃないな、こういう質問にさっと答えてこそ、自称・ジャーナリストだろう、と、自省した次第。


そしてその後のエントリでは、他の方の意見を掲載した後、最終的な結論を述べられています。


1・社会とのつながりのため
2・自分のため
3・社会のため

(それぞれの詳細はこちらから


そして文章をこう結んでいます。


 とまあ、こういう説明をしたところで、そのある学生は納得しないことでしょう。
 それはそれで構いません。
 社会に出ること、社会に出て 働くことで得られる楽しみ、達成感を知らないまま、一生、大学生だかニートだかで、いたいのならそれも結構。
 「かわいそうに、貧しい価値観しか 持てなくて」
 私はこの学生にはそれくらいしか言えません。どこかで働く楽しみを知って欲しいと願うばかりです。


私は、石渡さんに質問した学生の意図がわかりませんし、その席に同席していたわけでもありませんからあくまでも推論ですが、石渡さんはこの学生に相当ご立腹であろうことがわかります。その後のTwitterでの読者とのやり取りを見ていても思ったのですが、あまり本筋とは関係がないのでこの辺りで。。。


以下は石渡さんのご回答が一般的な「社会人」の返答だと仮定した上で見ていきます。

さて、では同じような疑問を持つ私は、この回答で納得いったかと言うと、さほど納得いっておりません。


まず、この一連のやり取りを見ていて、双方で非常に「ズレ」を感じたのは「働く(=労働)」という言葉のニュアンスです。
もし私が質問者だとすれば、ある種ニートのような存在を是認している立場で質問すると思います。
「お金が十分にあると仮定した上で、<職に就きその見返りとして賃金をもらう>、という行為なしに生存していけるのなら、その行為をする必要はないのではないでしょうか?」

別にかっこつけて面倒な言い回しをしてるわけではありません。極力「ズレ」を是正するためにこういう言い回しにせざるを得ないだけです。

恐らく、元々の質問者も「働く」という言葉を<職に就きその見返りとして賃金をもらう>ということに限定して質問しているはずです。そして<生存>するに足るだけのお金があるという合意があるならば、<職に就きその見返りとして賃金をもらう>必要性はないだろう、と。


対し石渡さんや一般的な「社会人」というのは、この「働く」という言葉を非常に多義的な意味で捉えています。もちろん<職に就きその見返りとして賃金をもらう>という意味も含んではいますが、その他にも上記にあるように「社会のため」「自分のため」「社会とのつながりのため」というような意味付けをもって、「働く」ということの必要性を説いています。


とまあ、このように「ズレ」を認識した上で石渡さんの示した3つの回答を見ていきます。

まず最初の<社会とのつながりのため>ということについて。


ヘーゲルは「法哲学講義」の中でこのように述べています。

 各人は、他人に依存しつつ、この依存性を自分の活動を通じて克服することによって、みずからの自立を自覚します。


これが石渡さんの仰る<社会とのつながりのため>であると言えます。

もう少し厳密に捉えれば、<社会とのつながりのため>というのも少し変な感じはしてきます。人間が本来的に社会の中での相互承認を前提とした生き物、それこそアリストテレスが「人はポリス的動物である」と言ったような生き物であるならば、<社会とのつながり>は生存に必要な絶対条件であって、いちいちそのために活動することはなく、あらゆる活動が<社会とのつながり>に還元されるはずだからです。

そして<自分のため>というのはごくごく当然のことだし、<社会のため>というのは漠然としていて何かわらかないというのが本音です。

少し話は逸れるのですが、例えばボランティア活動というのは「自分が奉仕活動をしたい」という欲求を満たすための行為で、その意味では自分のための行為であると考えます。
私は、究極のエゴイストというのは、世間一般でいう「自己中心的」な行為には走らないと思っています。エゴイストは自分が可愛くて可愛くて仕方ないわけですが、そんな可愛い自分が「自己中心的だ」と罵られるかもしれないようなことをするとは思えないのです。

まあ、本当はこれも微妙でして、そのエゴイストが何を主眼においてるかによって少し変わるとかあるんですけど一旦それは置いておきまして、こっから繋げたいのは<社会のため>という非常に道徳的・倫理的な観点からの「働く」という行為の支え方は、ただただ不満しか導き出さないということです。
基本的に労働に限らず自分のあらゆる行為は、自分のためになっているという点でしか原理的には良しとされません。なんでかわからないけどそうしなければならないと思ってしまうことをすることによる充足、とかいう回りくどい説明。

「目の前で人が倒れてる!なんとかしなきゃ!」「友達が飲み過ぎて吐いてるよ。。。面倒みてやるか」とか、これらもすべて自分のためになっているという認識があっての行為だと思います。それは人間の自然性に由来する規範意識がそうさせているはずです。

もし今、この文章を書いてる私の家にいきなり隣人からチャイムが鳴って「ちょっと俺の部屋掃除してくれない?」と言われたら「はあ?」となるでしょう。それは人間が本来的に持つ規範意識に含有されるような行為ではないからです。ところが、これを<社会のため>だから黙ってやりなさい、と言われたらどうしますか?

大体、今この世界にある職業の大半は、本当に必要なものかどうか疑わしいものばかりです。私も以前、コールセンターでアルバイトをしていたのですが、はっきりいってこの世に全く必要のない職業だと思いました。(コールセンターの形態や商材によりますが)
しかし、そんな職業でもやっていかなきゃ生存していけない、もしくは生存はできてもちょっとした贅沢ができない、だから「働く」。この「働く」は<職に就きその見返りとして賃金をもらう>という意味ですよ。
しかしそんな感じで「働く」ことを続けていても、嫌な場面に遭遇する。やれ残業だやれ上司がどうだと。そのような状況での負の感情を押さえ込める役割として、石渡さんの示すような「理由」があげられるのだと思います。しかし、まだそんな状況に出くわしていない夢見る我々大学生は、それが自己肯定のための誤魔化しであると思っています。だから納得していないのです。

もちろん、我々がそんな腑抜けたようなことを言ってられるのも、多くの人間がしっかりと職についている現状があるからです。私はいつも、道路工事をしてる人達には通行する際、しっかりと頭を下げるようにしています。嫌味でもなんでもなく、純粋な意味で大変な作業をやってらっしゃることに敬意をはらっているからです。

しかし、「だからお前もつべこべ言わず黙って働け」とは言われたくないものです。そうやって言ってくる人も、かつては僕等のように思っていたに違いありませんから。それなのに、「まあ俺もそうだったけど、働けばわかるからさ」というのは、その間に何も考えてこなかったことを隠しているだけではないのでしょうか。

石渡さんが結びで、学生やニートを一括りにして「貧しい価値観」と言っているのは、社会の中での相互承認が金銭による承認でしか有り得ないという、重大な誤認をしているからではないでしょうか。
というのも、石渡さん自身が挙げている三項目全ては、必ずしも<職に就きその見返りとして賃金をもらう>ということでなくても達成し得る事柄だからです。


 

「働く」ことによって得られる人間の相互承認というよき報いの意義は、「金銭」という見返りの実感のみに限定されるものではない。小浜逸郎 「人はなぜ働かなくてはならないのか」)


このエントリを書くにあたって高校生以来、久々にこの本を読んだのですが、この部分に線が引いてありました。なかなかわかってるじゃないかと、昔の自分を褒めてあげたくなりましたが、まあそんなことはいいんです。この引用中の「働く」というのは、<職に就きその見返りとして賃金をもらう>という意味だけではなく、石渡さんのように多義的な意味を含んでいます。
そして小浜氏はこの後、専業主婦の話をして、この引用文の妥当性を強調します。その意味では、学生も十分労働者と捉えることはできるし、(こんなこと言ったら怒られそうだけど)専業主婦だってニートみたいなものじゃないですか。しかし、一般的に「ニート」というと、引きこもりとMMORPGがセットになってる感があるから物凄く否定的に捉えられるのであって、もし<職に就きその見返りとして賃金をもらう>ことなく生活できているのならば、「ニート」であっても「働く」ことは可能であるはずです。矛盾してるように聞こえるかもしれませんが。「ニート」は選民。

ですから、もし「どうして働かなくてはならないのか?」と私のような意味で聞いてきた人に対しては、まず<職に就きその見返りとして賃金をもらう>ということだけが「働く」という意味ではないのだと説明しなければなりません。そこまで石渡さんも合っているのです。

ところが、石渡さんはそれらの意味は金銭的なやり取りの中でしか生まれないとしてしまっています。だから学生やニートを「貧しい価値観」としてしまう。そこで食い違うわけです。

私個人は、できることなら一生学生でもいいと思っています。今の大学を卒業して、可能ならばもう一回大学に入り直したいくらいです。
そこには確かに「働く」ことへの拒絶はあるでしょう。しかし、これは<職に就きその見返りとして賃金をもらう>ということへの拒絶であって、社会的行為すべてから解脱したいとかそういう意味ではない。

残念ながら、私はそんなに恵まれた家庭環境ではありませんから、卒業後何らかの職に就かなければならないでしょう。奨学金も返せませんし。
そういう時に、「社会人」からかけてほしい言葉は、その「社会人」が持つ現状への不満や憤り、諦めや不安といったものすべてを隠すことなく吐露してもらうことです。それを道徳や倫理といったベールで隠してしまって、どうして働かなくてはいけないのか?という質問を「愚問」と切り捨てるようでは、何の回答にもなっていないし、自分の思考停止振りをさらけ出してるだけにしか思えないのです。

就活のバカヤロー (光文社新書)

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